IMG_9731-b

ちょんまげ、世界の心に旗を立てる(前編)

ちょんまげサポーター、ツンさん。知られざるボランティア活動

2015/12/28
サッカー日本代表のサポーターの中に、「ちょんまげ」で知られる人物がいる。ツノダヒロカズ、通称ツンさんだ。彼は日本代表を応援するだけでなくサッカーを通じたボランティア活動を展開し、2014年には300万円を集めてブラジルW杯に被災地の子どもたちを連れて行った。今ではネパールなどでも活動をしている。なぜこの男はこんなにも人を巻き込むことができるのか。そもそもこの男は何者なのか(本原稿は今年度の「宣伝会議」編集・ライター養成講座において優秀賞を受賞した作品です)。

人間は2種類に分けることができる。このちょんまげ頭に甲冑姿の男をひと目見て、「面白い」と思う人間と「胡散臭い」と思う人間だ。正直なところ、筆者は後者寄りの人間だった。にもかかわらず、気がつけばこの男を追ってネパールに向かう飛行機に乗っていた。

もちろん、「気がつけば」なんて錯覚だ。自らの足で空港に向かい、飛行機に乗り込んだのは間違いない。ただ、想定はしていなかった。この記事は東日本大震災の話が中心になる予定だったので、日本でインタビューすれば済む話だ。しかし、この男の求心力がそうはさせなかった。

なんとか仕事のスケジュールを調整し、タイ国際航空ネパール行、TG319便に搭乗したのは、4月にネパールで死者数8000人を越す大震災が発生して半年が過ぎた2015年11月2日のことだった。

ツノダヒロカズ世界中どこでも出没するサッカー日本代表の名物サポーター。2011年3月11日東日本大震災を機にサッカーサポーターのネットワークを活かして東北支援を開始。この4年半で80回以上東北支援を実施し、震災を風化させない為の「被災地報告会」を全世界で200回以上主催している。2014年ブラジルW杯に被災地の中学生4人をサッカーのチカラで招待して話題に。近年では土砂災害を受けた広島県常総市への支援や、エチオピア・カンボジア・ネパールなど貧困地域などへの支援も行っている

ツノダヒロカズ
世界中どこでも出没するサッカー日本代表の名物サポーター。2011年3月11日の東日本大震災を機にサッカーサポーターのネットワークを生かして東北支援を開始。この4年半で80回以上東北支援を実施し、震災を風化させないための「被災地報告会」を全世界で200回以上主催している。2014年ブラジルW杯に被災地の中学生4人をサッカーのチカラで招待して話題に。近年では土砂災害を受けた地域への支援や、エチオピア・カンボジア・ネパールなど貧困地域などへの支援も行っている

機体がネパールに向けて滑走路を走り出した。窓の外の景色が流れるスピードがどんどん早くなっていく。幸運にも男の隣に座ることができたので、機体が水平になり安定してから話を聞こうとしていた筆者の思惑とは裏腹に、男は離陸する前に話し始めた。

「恥ずかしいところも書いてほしい。僕は脆弱だからこそみんなに助けられてここまで来ることができた。至らない部分もたくさんある。それでも、とにかく心を動かされたら足を動かすということだけをモットーにしてきた」

驚くほど正直な男だ。ネパールに向かう前の数日間は下痢だったそうだ。プレッシャーがかかるとすぐにおなかを下すらしい。

ネパールは現在、隣国インドとの国交悪化でガソリンが不足していることは聞いていた。ネパールに着いたとしても、日本で集めた支援物資を被災地に届けることができるかどうかはわからない。

しかも今回ツノダの想いに賛同して14人が集まってくれていた。ガソリンがなくて活動できなければその人たちに申しわけない。そんな不安を打ち明けた。

活動中はちょんまげに甲冑という飾りつけをしているが、彼が話す言葉に飾りはないように思えた。

2行のツィートに心を動かされた

男の名はツノダヒロカズ。ちょんまげ隊・隊長。通称、ツンさん。

千葉県で小さな靴屋を営む53歳。この4年半、心を動かされては足を動かし続け、東北支援は80回を超える。今ではカンボジアやエチオピアの貧困対策、今回のネパールの復興支援にまで活動はおよぶ。

ただ、ツノダの心は48歳まで動かされることはなかった。ツノダは大学を卒業後、広告代理店に入社し、3年ほど働いた後、千葉にある実家の靴屋の経営が悪化し、突如跡を継ぐことになる。当然、動かされない心に足もついていかなかった。

「ボランティアはしかるべき人がやるものだと思っていた。阪神淡路大震災の時も新潟中越地震の時もテレビで状況を見るだけで、行動に移すことはなかった。ボランティアをやる発想すらなかった。今になって思うのは、ボランティアに資格なんていらないし、プロもアマもないんだけどね」

ツノダは東日本大震災発生時もボランティアに行こうとすぐに考えたわけではない。テレビで東北の津波の映像を見ても、なにかSF映画を見ているような感覚で、衝撃は受けたが現実味がなかった。

そんなツノダの心を動かしたのは、ツイッターで流れてきたたった2行の文章だった。

「津波で家が流されて着替えがない。いろんな物がない」

テレビのほうが情報も多くてリアルなはずなのに、ツノダの心を動かしたのはたったこの2行だった。

幸いツノダの自宅には靴が山のようにあった。これを持っていけばいいのだ、一生に一回の偽善だと思って、ハイエースに200足の靴を積んで仲間と東北に向かった。

子どもたちが本当に求めていたもの

地震発生から1週間経って初めて被災地である塩釜市を訪れたツノダは啞然とした。物資が山積みになっていた。

「役所の人に、支援物資のパンを渡されて『僕はボランティアで来たので受け取れないです』と言ったら、『賞味期限が切れそうなんで食べて下さい』と言われた。もうビックリしちゃって」

とにかく役所に靴を持っていけばいいと思っていたツノダは出鼻をくじかれた。多くの人に感謝されて優越感を感じて千葉に帰れると思っていたのだ。

しかし、現実は違った。全国から物資は集まっても、道路が寸断され、車もガソリンもない状況で多くの人に物資が行き渡っていなかった。

翌日、ツノダはつてを頼って岩沼市の避難所に赴くことにした。そこは小学校の体育館だった。校庭は駐車場になっていて、体育館にはただ布団が敷かれているだけで、老若男女がプライバシーもなく寝転んでいた。そこで必要とされたのは、靴ではなかった。

「初めて避難所を目にして、涙が出たよ。50にもなるおじさんがはずかしいよね。でも子供たちを見るといたたまれなかった」

ツノダには当時小学3年生になる子どもがいた。自分の子どもは震災から1週間経って日常と変わらない生活を送っていた。それに比べ避難所の子どもたちは、寒い体育館で凍えている。

ツノダには子どもたちの気持ちが手に取るようにわかった。避難所には娯楽がない。遊びたいけど大人たちはかまってくれない。ツノダはちょんまげのかつらを被って子どもたちと遊びはじめた。

「初めて現場に行ってまずニーズを把握する大切さを知った。大量の支援物資が送られてきてもコーディネーターがいなくて困っているところもあった。そしてユーモアの大切さ。僕がちょんまげを着けているだけで、みんなが『殿さまが来たぞ〜!』と言ってあんなにも喜んでくれる。避難所は部外者からみれば非日常な空間にみえるけれど、被災者にとってはそれが日常なんだよ。いくら大人が大変でも子供の日常には娯楽が必要だ」

最終日。帰る直前に事件は起こった。小学6年生の男の子がツノダのちょんまげをツノダの頭から引っこ抜いて隠したのだ。

「その時、僕は子供たちのメッセージだと思ったんです。帰るなよ、って。もっと遊んでよ、って言っているような気がした。そこで言っちゃったんだ。『また来週来るよ!』って」

この一言が想像しない方向にツノダの人生を向かわせる。「また来週来るよ」の積み重ねが子どもたちを地球の裏側にまで連れて行くことになるなんて誰が想像しただろうか。

言葉が通じなくても、ちょんまげが心をつなぐ

言葉が通じなくても、ちょんまげが心をつなぐ

きっかけは北京オリンピック

ちょんまげ隊の始まりは、2008年の北京オリンピックだった。

サッカー日本代表戦の観戦時に、スタジアムを青に染めるプロジェクトで考えだした格好だ。スタジアムの外ではちょんまげに甲冑姿のツノダの前に、L字になるほどの行列ができた。

「日本人サポーターはみんな自分のチームのユニフォームで応援にくるけれど、海外のサポーターは自国のアイデンティティを表現している。ノルウェーのサポーターはバイキングのツノだったり、オランダはオレンジ色の木靴やチューリップだったり。そこで“日本のアイデンティティって何だろう”って考えて生まれたのが、ちょんまげに甲冑姿なんだ。でもあんなに人が寄ってくるとは思わなかった。自分の結婚式のときよりも『写真撮って』っていわれたよ(笑)」

日本人も中国人もそのほかの外国人も、国籍関係なくみんなが笑顔になるのがツノダにはうれしかった。靴屋の経営では得られることのない喜びだった。

人とお金を巻き込める理由

ネパールでもちょんまげの人気は絶大だった。

TG319便を降りたちょんまげ隊一行は、首都カトマンズで一泊し、翌日になんとかガソリンを手に入れ、丸一日ジープにゆられて被害の大きかったシンドバルチョーク郡ラムチェ村に到着した。

ラムチェ村は298棟中294棟が全半壊した。ちょんまげ隊がこの村に来たのは、これから冬を迎える住人に日本で集めた中古のダウンや現地で購入した毛布を配るためだ。

震災後、ツノダがラムチェ村に来るのはすでに2度目だった。とにかく行動の早い男だ。カトマンズでゲストハウスを経営し、今回のラムチェ村のプロジェクトをコーディネートした水出正さん(40)はこう語る。

「ツンさんは行き当たりばったりのようで行き当たりばったりではないんです。『これやりましょう』と言った瞬間にプランニングができている。ノリの良さと勢いの上に計算されたプランが乗っかってくるから、ここまで人とお金を巻き込める。僕にとっては師匠みたいな人です」

おすそ分けの感覚

ツノダのプランによって集められたダウンは380kgにもなった。しかし、それでも村の住人全員に行き渡るわけではない。ツノダは混乱せずにダウンを配る術を身につけていた。

村出身の現地スタッフに家族名簿をつくってもらい、一世帯につき一着を配るようにした。標高1400m、山の斜面に家が立ち並ぶ村にツノダの大きな声が響いた。

「並んでくださいね〜! ストレートプリーズ! そうそう、すごいね〜! 大丈夫!」

並んで自分の番を待つという意識が薄い外国人も、ツノダの日本語と英単語が混じった大きな声とくったくのない笑顔に、なぜか整列し始める。

ラムチェ村で住民を一列に並ばせるツノダ

ラムチェ村で住民を一列に並ばせるツノダ

それはツノダの心に支援する側とされる側といった意識がないからであろう。筆者は少しでも「胡散臭い」と感じた自分の心を恥じた。

ツノダはまるで「ひとり暮らしのお隣さんにつくりすぎたおかずをおすそ分けする」ように、日本で余っているダウンをネパールの人たちに配っているのだ。

そこにはちょんまげ隊の4つの哲学があった(後編に続く)。

(写真:筆者撮影)

*後編は明日掲載する予定です。