鹿児島ユナイテッドFC 徳重剛代表インタビュー(前編)
代表は公認会計士。鹿児島に悲願のJリーグクラブが生まれるまで
2015/12/23
ついに、鹿児島県に悲願のJリーグクラブが誕生した。
高校サッカーの名門である鹿児島実業高校を擁し、現役では日本代表で最多出場を誇る遠藤保仁やドイツの1.FCケルンに所属する大迫勇也らの出身地でもある鹿児島は、全国屈指のサッカーどころである。ところがJリーグ誕生以降、全国各地にJクラブが生まれる中、鹿児島ではJリーグ入りを目指す数々の話が立ち消えになってきた歴史があった。
サッカー人気の高さとは裏腹にJクラブの生まれない状況を打破したのが、2016年シーズンからJ3に参戦する鹿児島ユナイテッドFCだ。
同クラブは、FC KAGOSHIMAとヴォルカ鹿児島が紆余曲折の末に統合して生まれ、鹿児島サッカーの新たな象徴となっている。2008年にJクラブ誕生を思い描き、足掛け8年でJリーグ入りに導いたクラブ代表を務める徳重剛が、鹿児島初となるJクラブの道のりを振り返った。
会計士がJクラブ誕生を目指す
──徳重さんが代表を務められていたFC KAGOSHIMAとヴォルカ鹿児島が合併し、2014年から鹿児島ユナイテッドFCとして活動されていました。2016年シーズンに参戦することで県勢初のJクラブとなりましたが、クラブ誕生までの道のりを教えてください。
徳重:話せば本当に長くなってしまいます。僕自身は、大学卒業後に公認会計士の試験に合格し、2003年から監査法人のトーマツで働き始めました。そこで5年ほど働きましたが、今後もトーマツに残るのか、独立するのか、あるいは別の違う道に進むのか。さまざまな選択肢が出てきました。
ただ、自分自身としては大学でサッカーをやっていたこともあり、イギリスのリバプール大学サッカー産業MBAに留学して、サッカークラブに会計士として関わることを想像していました。その一環として、2008年4月から半年間、日韓W杯の招致などに尽力された広瀬一郎さんが教える多摩大学大学院のスポーツマネジメントスクールに通いました。
──スポーツビジネスの道を考えていたのですね。
9月からイギリスに留学する準備をしていましたが、その年の7月に、トーマツの後輩から誘われてスポーツビジネス界の方々が集まるパーティーに参加しました。すると、司会をしていたのが、僕の同郷の先輩であり、電通で働かれていた有川久志さんという方。
実は有川さんとは学生時代に就職活動をしていたときにお世話になっていて、お会いするのは8年ぶりくらいでした。久しぶりに再会してまた親交が深まると、「鹿児島にJリーグのクラブがないのは寂しい」という話になりました。そこから、「ないのなら自分たちでつくってみるか」と、話がどんどん盛り上がっていきました。
イギリス留学はいつでもできる
──イギリス留学はどうされたのでしょうか。
もちろん、僕はイギリスに行く予定で準備もしていました。ところが、そこで有川さんに「いや、イギリスに行くのはいつでもできる」と言われました。「Jクラブを誕生させることに挑戦してみて、5年後に『やはりイギリスに行きたい』と思ってから行くこともできる」と。
──すごい殺し文句ですね。
言われてみると、そうだよなと思い、「Jクラブをつくりましょう」と決めました。有川さん自身も、電通でプロ野球担当をやられていましたから、スポーツビジネス界の知り合いが多い方で、僕とは年こそ離れていますが小学校から中学校、高校の先輩に当たります。
──その2人が東京で再会したわけですね。
当時は大分トリニータが、ヤマザキナビスコカップで初優勝したときでもありました。2人で「ああいうものをつくりたい」とも話していました。
それに後付けの理由にはなりますが、2008年元旦の朝日新聞に、各県のプロスポーツという特集がありました。その記事には日本地図が描かれていましたが、鹿児島県と奈良県、山口県には「プロスポーツなし」と書かれていました。
──サッカーに限らず、プロスポーツ自体がなかったのですか。
野球やバスケットボール、アイスホッケーなど、すべての種目においてプロのスポーツチームがないところは3県だけということには愕然としました。
そのうえで、僕自身はサッカーをやっていましたし、有川さんは40歳を過ぎたことで地元の鹿児島に何か恩返しをしたいという思いが強くなっていたことがありました。
「Jクラブを目指す」と言うものの
──郷土愛が強くなっていたわけですね。
そうです。「スポーツで何か盛り上げられないか」と考えたとき、プロ野球は難しいですが、サッカーならば上を目指すことができるということはわかっていました。その点もJクラブをつくるという思いが高まった背景にあります。
──ただ、当時の鹿児島にはヴォルカ鹿児島という社会人チームがありました。
「Jクラブを目指そう」と言ってもヴォルカがあった。それに大隅NIFSユナイテッドFCという鹿屋体育大学のOBが主体となったクラブも、九州リーグに所属している状態でした。
どちらかのチームに入るか、それかまったく違うチームをイチからつくり、鹿児島県社会人リーグの一番下から昇格していくか。もしくは声をかけて両チームを一つにするか。どのようなかたちで進めるべきかと模索する状況から始まりました。
──なるほど。
僕自身は、もともと2008年9月にイギリスに留学しようとしていた時点でトーマツを辞める予定でした。ですから、7月にクラブをつくろうと決めたときに退職し、会計士としても独立しました。
もちろん、クライアントがいるわけでもなく、ただ退職したという状況。ただ、トーマツ時代の先輩が九段下に監査法人を設立して人手が足りない状況だったので、退職2カ月後の9月からアルバイトとして業務を手伝い始めていました。
そこで先輩から「今、何しているの」と聞かれ、「鹿児島にJリーグのクラブをつくろうと思って動き始めました」と答えたら、その監査法人のスタッフに鹿屋体育大学サッカー部の井上尚武監督の娘さんがいることがわかったのです。
突破口は偶然の出会い
──すごい偶然ですね。
それに井上さんは大隅NIFSの代表もされていましたから、まさに驚くような話でした。すぐに娘さんに「ぜひ、お父さんを紹介してください」とお願いしてみると、井上さんが12月にトヨタカップを観戦するために東京に来る際、お会いできることになりました。
実際に井上さんにお会いしてみて、「鹿児島にJリーグのクラブをつくりたいので、協力してもらえませんか」と話したところ、「若い人が東京から頑張るというのなら、ぜひ協力する」と理解を得ることができました。
──運命的な出会いに感じます。
本当に、大隅NIFSの代表の娘さんと東京の九段下の監査法人でばったり出会うなんて、すごい確率だと思います。有川さんと8年ぶりに再会したことも重なり、僕自身も勝手に運命を感じていました。「ああ、俺がやるしかないんだな」と。
──確かに運命的な出会いが二度も続けば、そう思ってしまいます。
やるしかない。そういう感覚でした。
初めての統合交渉は失敗
──ただ、そこからさまざまな壁がどんどん出てきてしまう。
壁だらけでしたね。まず大隅NIFSは県庁所在地の鹿児島市ではなく、大隅市をホームタウンにしていました。
そうなると、われわれが東京をはじめ、各地からスポンサーを集めて大隅NIFSを大きくしようしても、上を目指すにつれてどこかで壁にぶつかる予想はできました。それならば、このタイミングでヴォルカとの統合を提案しようと。それが2009年の5月でした。
──当初から、統合の話は出ていたのですね。
当時のヴォルカの代表は、僕の小中学校のサッカー部の先輩でした。そういうこともあって、じっくりとお話させていただくことはできました。
ただ、ヴォルカは教員団のクラブとして生まれてから約50年の長い歴史があり、当時の代表者だけでは決めきれない状態だったのです。
──歴史が長い分、OBも数多いと思います。
僕自身、10年近く東京にいました。相手も、いきなり鹿児島に帰ってきた人間に、「Jリーグのクラブをつくりたいから協力してください」と言われても、どれくらいの覚悟があるのか疑問に思われた部分はあったとしてもおかしくありません。
自分の覚悟を伝え切れなかったところもあったのか、ヴォルカ側は2009年5月の段階では「理念に賛同するけれど、一緒にすることはできない」という回答でした。
──統合まで持っていくことはできなかったと。
ただ、僕らも「鹿児島にJリーグのクラブをつくりたい」と、東京の鹿児島出身者や経営者の方々に対してお話をして、少しずつスポンサーが集まっていました。
それもあって、合意を得られない交渉をいつまでも続けるよりも、大隅NIFSを母体にしてFC KAGOSHIMAというクラブをつくり、2010年シーズンから県リーグに参入するという決断を下すことになりました。
(写真:福田俊介)
*本連載は毎週水曜日に掲載予定です。