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現実を見ない理想主義では現実を変えられない

ミャンマー政府と少数民族の和解に奔走した和僑

2015/12/21

2015年10月16日、ミャンマー政府と少数民族武装勢力の複数組織との間で、全国停戦協定が結ばれた。ミャンマーの真の平和への、大きな一歩だ。

日本ではあまり知られていないが、この歴史的和解の実現に大きな役割を果たした日本人がいる。僧侶にして、統一民族連邦評議会(UNFC)の相談役でもある井本勝幸さんだ。

井本さんは東京農業大学を卒業した後、日本国際ボランティアセンターに所属。ソマリアやタイ、カンボジアなどでの難民支援や農業指導を経て、28歳で出家した。アジア20カ国を結ぶ仏教系人道支援団体、四方僧伽(しほうさんが)の創設者でもある。

最初にミャンマーと関わりをもったのは2008年。全土に大きな被害をもたらした、台風ナルギス被災者への支援活動だった。当時の軍事政権は海外からの支援を認めておらず、井本さんは支援物資をこっそり被災地へ持ち込んでいた。

「薬や食料を配っている現場へ警官に踏み込まれ、観光客の振りもできませんでした。1日拘留されて強制退去、入国禁止のブラックリストにも入っちゃいましたね」

たいしたことではないというふうに、からりと笑いながら語る井本さんは、なるほど、悟りを開いた僧侶の面持ちだ。

井本勝幸さんは福岡生まれの52歳

井本勝幸さんは福岡生まれの52歳(写真:著者提供)

その後、タイ側でミャンマーの難民支援を続けていた2011年、タイ国境エリアに住むモン族のリーダーの一人、新モン州党(NMSP)のナイフンサー幹事長(当時)から「内戦の現場を実際に見て、私たちの苦境を世界へ伝えてほしい」と声がかかった。

入国ビザが下りるはずもなく、内戦状態のモン族支配エリアへタイから入り、NMSPの軍事キャンプに滞在。軍事訓練を除くすべての日常行動を彼らとともにし、打ち解けていったという。モン族が仏教徒で、井本さんは僧侶ということがあったにしても、兵士たちははどうして、それほどすんなり外国人を受け入れたのだろうか。

「キャンプにいる間、いつも一緒に行動するようにしていましたね。それこそ命の危険のある場所でも。何より当時、私は財産を使い果たし、何も持たない身だったんですよ。それがかえって、信用につながったのかもしれません」

何も持っていない自分が彼らのためにできることは何か、と考え、井本さんは農業支援を始めることに。農大時代や難民支援で培ってきた農業技術と経験が豊富にあり、ここには土地もある。その土地に合う、より換金性の高い作物や効率的な農法などを指導する学校を立ち上げ、指導にあたった。

個別の闘争から共闘へ

ある日、新モン州党を率いるナイフンサー議長との雑談中、話がリーダー論に及んだ。井本さんは彼に「あなたは良いリーダーではない」と言い切り、周囲を驚かせた。

「現に住民は戦争に苦しんでいる。争いを続けているうちは真のリーダーとはいえない」と持論を展開した。そして、「各民族が別々にミャンマー政府と戦っているが、自治権という目指す方向が同じなら意味がない」として、少数民族同士の共闘を提案したという。

左がNMSPのナイフンサー幹事長、右は井本さん (提供写真)

左がNMSPのナイフンサー幹事長、右は井本さん(写真:井本氏提供)

この頃には、ミャンマーの少数民族の間で井本さんは、知る人ぞ知る存在となっており、カレン民族同盟(KNU)をはじめとするほかの民族同盟からも、「内情を見てほしい」との誘いを受けるようになっていた。

そこで、あちこちのエリアを渡り歩き、共闘の橋渡しに努めた。この頃、「僧侶である」こともいったんやめたそうだ。ミャンマーには仏教徒でない少数民族もおり、彼らの信用を得るには僧衣が邪魔になったからだ。

そして2012年2月16日、ついにUNFCの立ち上げを果たし、その相談役に就任した。参加したのはモン族のNMSPやカレン族のKNUをはじめ、カチン族やチン族、パオ族など11民族の組織だった。

左がNMSPのナイフンサー幹事長、右は井本さん (提供写真)

パオ民族自由組織(PNLO)の人びとと(写真:井本氏提供)

こうして少数民族の団結が進んだその年の8月、突如、ミャンマー政府のアウンミン内閣府大臣から「密入国者」の井本さんに手紙が届き、首都ネーピードーへ呼び出された。

なんと、少数民族側との交渉仲介の依頼だった。これにより、ブラックリストから外れ、農業支援活動も正式に政府が認めるところとなった。

活動が政府公認となってからは、政府とUNFCとの会談のセッティングや調整に尽力。和平への道筋をつけることに成功することになる。どの民族にも属さない、その国において何の利害関係もない外国人という立場が、仲介役としてぴったりはまったのかもしれない。

それまでも外務省や、ミャンマー少数民族福祉向上大使である笹川陽平さんが主導する日本財団から非公式な接触は受けていたが、アウンミン大臣のお墨付きを得たことで大きく進展。日本財団から正式な支援を受けられるようになり、農業学校は日本政府の政府開発援助(ODA)へ引き継いだ。

ネーピードにて。アウンミン内閣府大臣(真ん中)との会談後 (提供写真)

ネーピードにて。アウンミン内閣府大臣(真ん中)との会談後 (写真:井本氏提供)

その後、UNFCを土台にほかの民族系組織も加わった計17組織が政府との折衝を続け、総選挙を数週間後に控えた2015年10月16日、うち8組織のみが先行して停戦協定を結ぶこととなった。

全組織まとまっての調印に至らなかったのは、総選挙前になんとしても一定の成果を上げようとした政府側の事情があったといわれている。井本さんはそれがとても残念と嘆く。

「10月初めの時点で、とりあえず調印して先に進み、様子を見てみようという調印派と、全民族がそろって合意に至らない限りは調印すべきでないという非調印派に分かれていました。後者も、いずれはサインするつもりはあったんですよ。あとは面子の問題だけだったんです。もう少し時間をかけて話し合えていれば、全土の停戦合意に至っていたはずなのに……」

今後の停戦合意には、選挙で勝利を収めたアウンサンスーチー国民民主連盟(NLD)党首が中心となってあたることになる。

すでに調印したグループもまだのグループも、停戦合意については現政権とのものであり、今後は不透明という論調も一部にはある。しかし、井本さんは、アウンサンスーチー党首との話し合いに期待を持っているという。

「ミャンマーは本音と面子を使い分ける国です。交渉相手が変われば、前回の調印時に面子をつぶされたと感じていた人たちの気持ちも軟化するかもしれません」

感謝の気持ちが遺骨の所在情報へ

ミャンマーでの経験は僧侶である井本さんに、どんな思いをもたらしたのだろうか。

「本来、仏教は非暴力を説きます。確かに非暴力は理想ですが、双方が武器を持ち、戦い、日々、人が亡くなっている現実の前で、武器を持つなと言っても意味はありません。現実を受け入れ、落としどころを探りながら追求する理想こそが、現実を変えることができるのだと実感しました」

井本さんの活動には、思わぬかたちでの「おまけ」もついた。和平に尽力してくれたお礼にと、少数民族側から、第2次世界大戦中にミャンマーで亡くなった旧日本兵の遺骨に関する情報がもたらされるようになったのだ。

これまで多くの戦没者の遺骨が日本へ帰還を果たしたが、7万人ともいわれる死者を出したインパール作戦が実施されたエリアも含む、少数民族が支配する山岳エリアは、長く続いた内戦のせいで手付かずだった。井本さんは現在、こうした戦没者の遺骨収集活動も行っている。

遺体の埋葬場所を記憶している証人たちは高齢化が進み、どんどん情報が失われつつある。和平により静けさを取り戻しつつある山岳地帯で、井本さんの奮闘はまだまだ終わりそうにない。

(執筆:板坂真季、編集:岡 徳之)