日本ラグビー新時代
三井物産を退社してラグビーW杯組織委員会へ。29歳の決断
2015/12/19
2019年秋、日本に初めてラグビーW杯がやって来る。
9月20日の開幕戦(東京)で幕を開け、11月2日の決勝戦(横浜)で幕を閉じる。南は大分から、北は札幌まで、日本全国12都市で出場20カ国がラグビー界の頂点を争う。日本ラグビーを発展させるビッグチャンスだ。
自国開催という特別な熱は、多くの優秀な若者をラグビー界に引きつけている。その一人が中田宙志だ。
中田は東工大を卒業後に三井物産に入社し、海外のインフラ事業を手がけてきたが、今年5月に同社を退社し、6月からラグビーW杯2019組織委員会に入った。現在、企画調整部に所属し、各部署を横断的に見るプロジェクトマネジメントの役割を担っている。
なぜ29歳の若者は商社を辞め、ラグビー界に飛び込んだのか。
駐在先で日本代表と出会った
──三井物産を退社してラグビーワールドカップ2019組織委員会に入ったのは、人生の大きな決断だったと思います。その経緯を教えてください。
中田:私は東京工業大学でラグビーをやっていたのですが、卒業後はラグビーから離れ、2009年に三井物産に入社してインフラ事業に携わっていました。
最初の3年間は東京にいながら中南米のインフラ案件を担当し、2012年4月から2年間メルボルンに赴任して発電のプロジェクト担当になりました。
そのメルボルン駐在時代に、日本代表の堀江翔太選手がスーパーリーグのレベルズに加わったんです。
──パナソニックの堀江選手は2013年2月、メルボルンを本拠地とするスーパーラグビーのレベルズに入団しました。そのときに出会ったわけですね(*日本のトップリーグと南半球のスーパーリーグはシーズンが異なるので、選手は両方に出場できる)。
はい。同年代の私にとって堀江選手はスーパースター。これはすごい機会だと思い、会社の同僚を介してラグビー関係者に連絡を取り、堀江選手とコンタクトを取った。で、堀江選手と奥さんがメルボルン空港に到着したその日に、車で市内を案内したんです。
堀江選手との同居生活
──そこから縁が深まったと。
ただし、僕も風力発電のプロジェクトでかなり忙しく、最初のシーズンはあまり会うことができませんでした。でも、2年目のシーズンが始まる前に日本で再会したら、「家探しに困っている」と相談されたんですよ。「1年目は家が見つからず、ホテル暮らしになり、体にものすごく負担がかかっていた」と。
商社なら50人くらいの体制で総務がサポートしてくれて、家賃もすべて出ます。サッカー選手も、おそらく日本代表クラスであれば、マネジメント会社が家を探してくれますよね。でも当時、ラグビー選手の場合は違ったんです。
これは何とかサポートしたいと思い、ちょうど僕が住んでいた家の一室が空いていたので、そこに堀江選手夫妻を誘いました。「家賃はいらない。でも食事は作って」とお願いして(笑)。
社会人5年目に、まさか日本代表選手と一緒に生活することになるとは思いませんでした。
日本ラグビー界の危機感
──それは思いもよらぬ経験ですね。
そのとき堀江選手から、「日本ラグビー界は厳しい状況にある」という話を聞いたんです。
2019年ラグビーW杯が控えているのに、選手がメディアにほとんど露出しないと。堀江選手がレベルズに入団したときも、日経新聞に取り上げられたくらいで、ほとんど扱われなかった。「選手たちはラグビーW杯に向けて、すごく危機感を持っている」と言っていました。
そこで僕が堀江選手にインタビューをし、ビジネスマンに向けたかたちで発信してみようということになったんです。
ちょうど堀江選手はパナソニックの優勝にキャプテンとして貢献していたので、組織論について語ってもらいました。印象に残ったのは次の言葉です。
「キャプテンとして重要視したのは、チーム全員で同じ絵を描くこと。試合に出ている人・出ていない人を隔てなく、チームとしての目標・戦術から細かいプレーまで、同じ認識で進んでいくことを重要視した。レベルズではAチームとBチームでモチベーションの差が生まれていて、疑問を感じていた。経験を無駄にしてはいけないと思い、パナソニックに戻るとすぐにコーチにそれを伝えたんだ」
事務局長にフェイスブックで連絡
──優勝したキャプテンの言葉には説得力がありますね。
ただし、フェイスブックに載せたのですが、当然ながら友人や知人が読むだけで自己満足で終わってしまった。
そうこうしているうちに、2年間の駐在期間の終わりが来てしまった。帰国して再び東京で働き始めたのですが、何か行動を起こさなきゃと思い、ラグビーワールドカップ2019組織委員会の徳増浩司事務局長にフェイスブックを通じて連絡を取ったんです。
──それは大胆ですね。
もし自分に貢献できることがあれば何かしたい、まずは直接会ってもらえないか、ということを書きました。
そうしたら今の上司を紹介されました。当時は組織委員会に入るつもりはなかったのですが、実際に今の上司から話を聞いたら、すごく面白そうだと感じた。
三井物産ではインフラ事業に携わり、大きなおカネが動く世界にいましたが、組織委員会の仕事もプロジェクト推進という点ですごく似ていたんです。
商品は違うんですけれども、予算を組んで、人を動かし、マネジメントするという点でやるべきことは同じだなと。
転職への迷い
──すぐに転職を決断したんですか。
いや、僕がいたインフラの仕事は「長期安定プロジェクト型」といって、25年や30年の期間でキャッシュフローがすごく安定的なんですね。小売りや飲食のように、景気の波で収益が大きく変わる業界ではない。
金融業もそうだと思うんですが、そういう仕事に携わるとおのずとコンサバ志向になり、僕自身も仕事を通じてそういう性格になっていたので、すぐにラグビー界に飛び込むことはしませんでした。
冷静に考えてみようと。2014年7月から半年間いろいろな角度から検討し、決断したのは12月でした。
過酷なレースで得た自信
──決断の決め手は?
日本ラグビー界の危機感、ラグビーへの情熱、商社で培ってきたスキルを生かせるという確信、そして次なるチャレンジに進みたいという冒険心でした。
ちょうど2013年11月にオーストラリアで「タスマニア・チャレンジ」という350kmを5日間で自転車、ランニング、カヤックで走破するレースに出場したんです。
ペアを組んで出場するのですが、幸運にもトライアスロンの世界大会で優勝した45歳の女性と組むことになりました。彼女は地図を読む能力が優れているので、僕はガムシャラについて行くだけ。波に体を持っていかれそうになったり、何度か死ぬかと思いましたが、完走することができた。
他に北京五輪のトライアスロンの金メダリストも出場していたのですが、地図を読むところで差がつき、彼らより順位が良かった。知識やスキルがあればメダリストにも勝てるという経験が、最後に背中を押してくれました。
間違いなく伸びる業界
──生涯賃金は計算しませんでしたか。
もちろん計算しました(笑)。転職後に給料は下がったのですが、総合的に判断して今しかないと。
それにラグビーは潜在能力がすごくあるのに、日本では評価されていないと思ったんです。株と同じで、これから間違いなく伸びる業界に賭けようと思った。
今、日本ラグビーは大きな過渡期にある。すごく変わろうとしていて、そこに身を置けているのはすごく刺激的です。まだ半年しか経っていませんが、ラグビー界に飛び込んで良かったです。
──今年のラグビーW杯で日本が南アフリカに勝ったときはいかがでしたか。
仲間たちと西麻布のスポーツバーに集まって見ていたのですが、まったく予想しておらず、涙が出る前に呼吸困難になりましたね(笑)。
4年後に向けた取り組み
──ラグビーワールドカップ2019組織委員会には、どんな人たちが働いているのですか。
国から来ている人間、地方自治体から来ている人間、民間企業から出向している人間、ラグビー協会、そして僕のようなプロパー社員など、さまざまです。
──今、中田さんはどんな仕事を担当しているのでしょう。
僕が今いるのは、企画調整部という部署で、各部署を横断的に見るプロジェクトマネジメントが役割です。
2019年のW杯開催までにいろいろ計画・準備する必要があり、たとえばスタジアム内外でどのような運営を行うか、各開催都市とタッグを組みどのように運営を進めていくか、宿泊先をどう手配するか、キャンプ地をどうするか、VIP対応をどうするのかなど、業務は多岐にわたるので、各部署に横串を刺して事業推進をするのが僕の業務です。
イングランド大会では日本代表の活躍もあり、多くの感動がありました。4年後の日本大会をそれ以上に素晴らしい大会にできるよう、今からいろいろな取り組みをしていきたいと思います。