松森亮(元ジュビロ磐田)前編
戦力外からIT力を生かして広報へ。元Jリーガーの挫折と復活
2015/12/19
ジュビロ磐田が3年ぶりにJ1に昇格した舞台の裏で、一人の広報がクラブを去る。元Jリーガーの松森亮だ。戦力外通告後、専門学校生となった「落ちこぼれアスリート」はいかにしてサッカー界で再起したのか。若手スポーツライターの小田菜南子が、松森の人生を2回にわたって描く(本原稿は今年度の「宣伝会議」編集・ライター養成講座において優秀賞を受賞した作品です)。
91分につかんだJ1昇格に、選手もサポーターも喜びを爆発させた。
11月23日J2リーグ最終節。ジュビロ磐田は自動昇格へ残されていたただ1つの席を、劇的なロスタイム弾で手中に収めた。
監督、名波浩は選手の胴上げを受けて7回宙に舞い、ようやく控室に戻ろうとするところを呼び止められる。サポーターをバックにした記念撮影のためだった。呼び止めたのはジュビロ磐田の運営スタッフ、松森亮。誰もが歓喜に酔う中、スタッフ同士のシミュレーション通りの進行を担う表情は緩まない。
松森は38歳。2002年からジュビロ磐田の広報を務め、月額制のオフィシャル情報サイトの立ち上げや、試合速報の配信を開始するなど、ジュビロ磐田のメディア化を推進した立役者だ。
約10年にわたりチームとサポーターの架け橋としての役割を果たした後、2013年から運営へ異動。そしてチームが3年ぶりのJ1昇格を決めた11月23日からちょうど1カ月前、自身のフェイスブックでジュビロ磐田でのキャリアに終止符を打つことを発表していた。
ユニフォームやトレーニングウェアを着た選手やスタッフの中で、細身のスーツをまとう彼の姿は芝生の上で少し目立つ。ポイントは、「ジャケットの真ん中のボタンは必ず留めること」。それだけで精悍(せいかん)な印象を相手に与えることができるというのだ。
そうしてスーツを日々着こなす彼も、かつてはサックスブルーのユニフォームを身に着けてプレーをしていた時期があった。
高卒から2年で戦力外に
高校時代は市立船橋高校サッカー部に所属し、1994年度の全国高校選手権では優勝を飾る。1996年にジュビロ磐田に入団し、ポジションはDF。同年のAFCユース選手権にU-19日本代表として出場した。同期の選手には柳沢敦がいる。
順風満帆かに見えたキャリア1年目だが、チームの公式選出場機会は意外にもゼロだった。続く2年目も試合出場を果たせないまま、リーグ戦は終わってしまう。一方チームは年間総合優勝を収め、チーム内の競争は極めて高いものになっていた。
来年こそと意気込む松森に提示された来季の年俸額、そこには0円という文字があった──。
「0円提示」それは、単純に来季チームから給料が支払われないという意味ではない。年俸ゼロの選手がチームに残留することはできず、移籍か引退のどちらかを迫られる。実質上の戦力外通告──クビ──である。
すでに切れていた想い
一度戦力外通告を受けた選手が次の所属先を見つけることは簡単ではない。今ではJリーグ合同トライアウトが開催されているが、松森の時代はまだその制度はなかった。戦力外通告を受けた選手は、チームから練習先をあっせんされる仕組みになっていた。
松森はガンバ大阪とサンフレッチェ広島の練習に参加することとなった。しかし、契約が約束されているわけではない。もはや希望は抱いていなかった。
「オープンな場でスカウトされるわけではなく、このクラブがDFを欲しいそうだから行きなさいという感じで決められる。それでもいい、どこでもいいからサッカーがしたいという想いはなく、すでに気持ちが切れてしまっていた」
Jリーグバブルの崩壊
松森が戦力外通告された1997年シーズンは、Jリーグバブル崩壊の年だ。多くの選手が松森と同じようにクラブからクビを通告されていた。
1993年のJリーグ開幕の年には「Jリーグ」が流行語大賞にまでなり、1試合平均の入場者数も2年目までは順調に伸びていった。だが、1995年を境に減少。さらにクラブを支える親会社やスポンサーの経営不振というダブルパンチが加わってしまう。
1997年に清水エスパルスの運営会社が資金繰りに苦しみ、翌年1月に経営権を他社へ譲渡。98シーズンを最後に、横浜フリューゲルスは出資会社のうち1社の経営不振により他クラブとの合併を余儀なくされた。
サッカーというコンテンツへの投資価値に疑問が広がっていたこの時代、サッカーで稼ぐことを望む選手と、クラブとの間の需要と供給は大きく傾いていた。
IT系の専門学校に進学
松森はどのチームとも契約を結ぶことができないまま、実家のある千葉へと戻った。そして、高校サッカー部時代の恩師である布啓一郎監督(現ファジアーノ岡山コーチ)を訪ねて母校へ向かった。
このときすでに、次の進路として情報システム系の専門学校への進学を考え始めていた。
「サッカー選手をやめたら指導者になるというのが、王道かもしれないが、自分はサッカー選手になって2年でクビ。しかもJリーグ出場はゼロという身で教えられることはないと思っていた」
布監督はそこで、ある専門学校を松森に勧める。そこには布監督の恩師が監督を務めるサッカー部があった。サッカー部への入部を条件に入学を決めてもなお、松森の心にサッカーへの情熱は宿らなかった。
高校生に教えられた原点
専門学校入学後は学業とアルバイトにいそしむ日々。プロ選手だったわずか2年の間の貯蓄は少なく、入学金や教科書代などの準備費で消えていく。
サッカー一筋で生きてきた松森にアルバイト経験はもちろんなかったが、必然的に働かざるを得なかった。学校のサッカー部には仕方なく入部していたが、そこはジュビロ磐田時代とはかけ離れた練習環境。心は動かない。
そんな松森に、ある日、ターニングポイントが訪れる。きっかけを与えてくれたのは練習試合相手の高校生だった。
「同じ千葉にある高校と定期的に練習試合があって、もちろん技術なんて大してなくて、オイオイというレベルの選手もいた。でもみんな目が真剣で、絶対にプロになりたいとか、選手権に出たいとか本気で考えていた。自分の今の姿勢がすごく恥ずかしいというか、何すねてたんだろうと、はっと気がついたんです」
サッカー情報サイトの会社に就職
このサッカーとの“再会”が、「想い」を持って生きる人生へと彼を再び向かわせた。
専門学校のサッカーチームに本気で取り組み、チームは2年連続で全国大会出場を決め、全国3位の結果を残す。そしてこのサッカーへの情熱と、学校で培ったシステムへの知見の2つを武器に次のステップへと進む。
「想いがないと何もできないということを痛いほど実感した。だから、卒業後はただシステムの会社というわけではなく、自分の想いが生かせる場所がいいと思った。行き着いた先は、社長がサッカー好きという会社。今思えばちょっと短絡的かもしれないけれど」
そこでサッカー情報サイトや、選手個人のオフィシャルサイトの開設など、精力的に働く。このときすでに松森の中に、Jリーグで挫折したことの劣等感はなかった。
あるのは「自分の手で何かを成し遂げる」ことへの情熱。引退後距離を置いていた同世代の選手たちへも連絡を取り、サイト開設を働きかけた。彼に心動かされ、ウェブサイトを開設した選手の中には、当時トルシエジャパンの中心的存在だった明神智和(現ガンバ大阪)もいる。
松森は当時の心境を、「少し意地が悪い考え方かもしれないけど」と前置きしてから語った。
「その瞬間を比べたら、プロを続ける彼らのほうが、戦力外になった自分よりも勝っている人生に見えるかもしれない。だけど、15年後、20年後、彼らが引退したとき、自分のほうが社会人としてのキャリアはずっと長いことになる。そのとき初めて、勝ったと思える人生にしようと思った」
起業を経て古巣の門戸を叩いた
選手個人の次は、彼らが所属する各クラブチームへと出向いた。
ただし、そちらの門戸は固かった。松森は新たなビジネスチャンスを狙い、自ら会社を興したが、そこもやがて解散し、ウェブクリエイターとして独立を決意する。
車1台とパソコンで営業に回る日々。そして松森は、かつて自分を手放したチームの扉を叩いた。サッカーボールをパソコンに持ち替えて。
(写真提供:松森 亮)
*後編は明日掲載します。