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金メダリストの創り方【第12回】

陰口に耳をふさぎ、母と娘で支え合い。平野美宇、山梨から世界へ

2015/12/10

「夢は五輪で金メダルです」

小学校1年生、7歳の平野美宇が全日本選手権バンビの部で優勝したときにそう宣言してから、母と娘の卓球行脚が始まった。

3歳半のときから二人三脚で卓球を教えてきた母親の真理子は、全日本で優勝するまで自分のしていることに確信を持てなかった。

試合で負けるたびに「もっとうまくなりたい、強くなりたい」と言う美宇に、それまで以上の練習を課す。すると、その光景を見た周囲から「かわいそう」「親のエゴじゃないか」という陰口が聞こえてきて、心を痛めていた。

しかし、美宇が自らの意志ではっきりと口にした夢を全力でサポートしようと心に決めてからは、自信を持って「この子の夢のためにやっている」と思えるようになった。

練習相手を探して訪ね歩いた日々

目標に到達するために何が必要なのかを逆算した真理子がまず始めたのは、レベルの高い練習相手を探すことだった。

7歳の美宇はすでに、真理子が運営している「平野卓球センター」(山梨県中央市)に所属する小学校6年生の男児も勝てないようなレベルになっていたが、真理子は「五輪を目指すなら、自分の指導力だけでは足りない」と感じたという。

「私は、自分の能力の限界をわかっていたから。学生時代、選手として一生懸命頑張ってはいたけど、あくまで趣味のレベル。世界を目指すとなったら、いくら私が精いっぱいやっても無理ということを自覚していたので、美宇が『五輪で金メダル』と言った瞬間に、このままではいけないと思いました」

真理子は、あらゆるツテをたどって美宇の練習相手を確保した。インターハイに出場する山梨県内の高校に行って部活に参加させてほしいとお願いし、全国レベルで活躍した経験のある人が県内にいると聞けば、訪ねていって練習相手になってほしいと頭を下げた。

筑波大学時代に関東大会優勝を飾った平野真理子だけに、娘・美宇が世界で戦うために必要なことがわかったのだろう

筑波大学時代に関東大会優勝を飾った平野真理子だけに、娘・美宇が世界で戦うために必要なことがわかったのだろう(撮影:川内イオ)

元女子日本代表監督との出会い

しかし、山梨は特に卓球が盛んなわけではなく、レベルの高いプレーヤーもそれほど多くはない。そこで、知人から紹介された東京富士大学卓球部の西村卓二監督を頼った。

西村監督は元女子日本代表監督で、在任時に13歳の福原愛を日本代表に抜てきし、2004年世界選手権で団体銅メダル、同年アテネ五輪ではシングルスでベスト16に導いたことで知られる名将だ。西村監督に事情を話すと快く受け入れてくれて、週末や長い休みのとき、東京富士大学卓球部の練習に美宇も参加できるようになった。

年に数回のこの交流は、小学1年生から卒業するまで続いた。「美宇にとって、この経験はすごく大きかった」と真理子は振り返る。

「西村先生は愛ちゃんの小さい頃を知っているので、小さい子だからって甘い顔をしないんです。冬の合宿についていったときも、大学生と同じメニューで朝から一緒にランニングするんですけど、『いいか、福原愛もこのぐらいは走ったぞ』と励ましてくれて、子ども扱いしない。私は、特別扱いされるのはこの子にとって良くないと思っていたから、監督の姿勢がありがたかったですね」

4歳の頃に全日本選手権バンビの部山梨県予選で準優勝し、初めての賞状をもらって大喜びする平野美宇(提供:平野真理子)

4歳の頃に全日本選手権バンビの部山梨県予選で準優勝し、初めての賞状をもらって大喜びする平野美宇(提供:平野真理子)

母を支えた、美宇の言葉

自宅では毎日3時間練習し、週末には練習相手を求めて県内外へ遠征する。母と娘が卓球にかける時間は、全日本バンビの部で優勝する以前よりも格段に多くなった。

学生時代には卓球に本格的に打ち込み、美宇の才能を間近で感じてきた父親ですら「まだ1年生なのに、練習が厳しすぎないか? 卓球センターでやっていれば十分だろう」と疑問を呈すほどだった。

優勝を経て、和らいだ周囲の視線が再び厳しさを増す中で、ある日、美宇が折り畳んだ色紙を真理子に渡してきた。開いてみると、当時、美宇が気に入っていた星のマークとともに、かわいらしい平仮名でこう記されていた。

「ままだいすきだよ たっきゅうおしえてくれてありがとう」

真理子は、この色紙を今でも大切に保管している。美宇の言葉は、長い間、真理子の心の支えになった。

小学1年生の頃、平野美宇が母親に送った手紙

小学1年生の頃、平野美宇が母親に送った色紙(撮影:川内イオ)

元中国代表にコーチを依頼

大学生や社会人を相手にした武者修行の成果もあって、美宇の快進撃はとどまることを知らなかった。

2年生になると、全日本卓球選手権大会ジュニアの部(高校生以下)に史上最年少で出場し、勝利を記録。3年生のときには、全日本選手権カブの部(小学校4年生以下)で優勝したうえに、史上最年少となる9歳で一般の部にも出場を果たした。

娘の急速な成長を目の当たりにした真理子は、「世界を目指すためには、世界を知る人の指導が必要だ」と知人に頼み込んで、元中国代表選手で、世界ランキング5位にまで上り詰めた経験を持つ陳莉莉にコーチを依頼した。

平野美宇が着ていたユニフォーム

平野美宇が着ていたシャツ(撮影:川内イオ)

日本より深い、中国の指導法

陳コーチは当時神奈川県在住だったため、月に2回、週末に山梨で指導を受けることになった。現在は日本代表のエース・石川佳純のコーチを務める陳の指導内容は、真理子にとってまさに目からうろこだった。

「聞いたこともない、知らないことばかりでした。一つの打ち方にしても、日本語なら一つしか表現がないのに、中国ならボールの触り方、微妙なタッチの仕方で細かく名前がついているんです」

「音楽に例えるなら、日本は四分音符しかないけど、中国には十六分音符がある。四分音符だけで音楽をつくれと言われたら簡単な曲しかできないけど、十六分音符まで細分化されたら、さまざまなバリエーションに富んだ複雑な曲もできますよね。陳さんは美宇の本当の基礎をつくってくれた方だと思います」

娘の夢を守ってあげる唯一の存在

美宇は、小学校3年生から卒業するまで陳コーチの指導を受けた。

ということは、不定期とはいえ、美宇は小学生時代に元日本代表監督と元世界ランキング5位から薫陶を受けたことになる。決して地理的に恵まれているとはいえない山梨で、真理子が方々に手を尽くして日本最高峰の環境を整えたことが、美宇の進化を支えたのだ。

その労力は計り知れないが、真理子は「美宇の夢や目標を守ってあげられるのは、私しかいなかったから」とほほ笑んだ。

「実業団もない、強い大学もない山梨でなければ、そんなことをしなくても良かったかもしれない。でも練習の質を上げて、山梨から世界を目指すためには必要不可欠でした」

平野真理子が運営する平野卓球センター

平野真理子が運営する平野卓球センター(撮影:川内イオ)

*続きは明日掲載します。

前編:福原愛2世の育て方。天才卓球少女・平野美宇と母の「夢と虚像」

<連載「金メダリストの創り方」概要>
4年に1度行われるオリンピックは、スポーツ界で最も過酷な大会の一つだ。国中の期待を背負う重圧は壮絶極まりなく、目の前の相手はもちろん、自分との戦いに勝って初めて金メダルを獲得することができる。選ばれし者の舞台に立つまでにアスリートは自身をいかに鍛え、また各競技団体はどうやって世界一になれる選手を創り上げているのかをリポートする。