金メダリストの創り方【第11回】
福原愛2世の育て方。天才卓球少女・平野美宇と母の「夢と虚像」
2015/12/9
──夢は何かな?
「キティ屋さんです」
──五輪に出たい?
「……出たいです」
──何色のメダルが欲しい? 金、銀、銅?
「……金色です」
これは、まだ幼稚園に通っていた頃の平野美宇とメディアの記者とのやり取りだ。
卓球に限らず、スポーツをしている子どもで、「五輪に出たいか」と聞かれて「出たくない」という子は少ないだろう。同じように、銅メダルが欲しいという子どもも珍しいはずだ。
メディアがつくった虚像
この取材ともいえない取材の翌日、某メディアで「夢は五輪で金メダル! 愛ちゃん2世」という見出しが躍った。内容に多少の違いがあれど、その後も同じようなやり取りが繰り返されて、美宇の存在はどんどんクローズアップされていった。
3歳半の頃から平野に卓球を教えてきた母親の平野真理子は、メディアによって報道される当時の美宇を「虚像だった」という。
「夢は五輪で金メダルなんて、一言も言ってないんです。キティちゃんが大好きで、『夢は?』と聞かれると美宇はいつも『キティ屋さん』と答えていました。それなのに、愛ちゃん2世といわれるようになって、バンビの部(全日本選手権の小学2年生以下の部)で優勝できる力もない5歳ぐらいから、『バンビで優勝か?』と書かれてしまって……」
過熱する周囲、母親の葛藤
真理子は、責任を感じていた。メディアの過熱報道のきっかけをつくってしまったのが自分だと思っていたからだ。
初めて取材の依頼があったとき、真理子は家族に相談し、「一生に一度の記念に」と承諾した。
しかし、取材の模様が某テレビ局で放送されると、取材依頼が殺到。「卓球の普及のために、メディア取材になるべくご協力お願いします」との話もあって依頼を受け続けると、いつしか「夢は五輪で金メダル! 愛ちゃん2世」というイメージがつくられていった。
取材やメディアとの付き合いに慣れていなかった真理子は、“虚像”が独り歩きしていくのをなすすべなく見ながら、美宇の将来を案じていた。
「これでもしも一度も全国で優勝しなかったら、この子が物心ついたときに『あの子、小さい頃、愛ちゃん2世とかいわれてたのに、一回も優勝できなかったね』という言葉を耳にしたり、インターネットでそういう書き込みを目にしたりしたときに、きっとすごくショックを受けて、それが原因で卓球が嫌いにならないかなって。ただ楽しくて、大好きで卓球をしていたのに、最初にメディアの取材を受けてしまった私のせいだと思いました」
娘の才能を感じ、揺れ動く母親
このとき、真理子の心中には「なんとか全国大会で優勝させてあげたい」「もっとおおらかに卓球を楽しませてあげたい」という相反する思いが、せめぎ合っていた。
美宇には、確かな才能があったからだ。
週2回、卓球教室で小学生を教えていた真理子のスカートをつかんで、「私も卓球したい!」と泣き叫んで訴えたのが、3歳半のとき。2人で卓球の練習を始めてからの上達のスピードは、「離れている時間が寂しかったのかな」と真理子を驚嘆させるものだった。
3歳を終える頃にはラリーが続くようになり、卓球台の端に置いた目標物を狙い打ちする的当ても、信じられないほどの的中率だった。
4歳になって卓球教室に入ると、小学生に交じって同じ練習メニューをこなし、間もなくして互角以上に渡り合うようになった。この年、全日本選手権の山梨県予選バンビの部で準優勝している。
卓球が一番自己表現できる
しかし、真理子にとって何よりも印象的だったのは、めきめきと上達する腕前ではなく、卓球をしているときの美宇の姿だったという。
「赤ちゃんの頃から聞き分けの良いおとなしい子で、騒いだり、激しく自己主張をしたりするタイプじゃなかったんです。でも、卓球で試合に負けて悔しいときは、感情があふれ出る。試合中も、負けたくなくて途中からボロボロ泣き始めちゃって。だから、卓球をしているときが一番自己主張できているんだな、と。感情表現をできる場を人生の中で持つのは大事なことだから、うれしいことだなと思っていました」
娘にとって、卓球はかけがえのないものに思えた。娘から、卓球を奪いたくなかった。その一心で、真理子はある日、「全日本選手権バンビの部優勝」を目標に据えた。
人生で一番苦しかった時期
全日本選手権で優勝しようと思えば、それ相応の練習が求められる。必然的に美宇の練習時間は長くなり、密度も濃くなった。練習時間は、毎日3時間に及んだ。
卓球に打ち込む母子の姿を見て、「やりすぎだ」「子どもがかわいそうだ」と非難する声も聞こえてきた。
それを無視できるほど、強くはない。気持ちは大きく揺れ動いた。
「本当にやりすぎてないか、子どもをつらい目に遭わせていないか、自分のためになってないか、ずっと葛藤しながらの練習でした」
真理子は、この時期を「人生の中で一番苦しかった」と振り返る。
それでも毎日練習を続けられたのは、誰よりも美宇のそばにいて、試合に負けると吐くほど泣いて、「負けたくない、もっとうまくなりたい」と訴える美宇の気持ちが本物だと感じていたからだ。美宇は、どんなにハードな練習をしても、一度も弱音を吐かなかった。
迎えた2007年7月、真理子は歓喜と安堵(あんど)が入り混じった、熱い涙を流していた。7歳の美宇が福原愛以来12年ぶり史上2人目となる、小学1年生でバンビの部の全国優勝を果たしたのだ。
解放感の直後、まさかの一言
「これで私の役目は終わった。責任は果たした」と胸をなでおろした真理子は、心の中である決意を固めていた。
「今後、メディアの取材を一切お断りするつもりだったの。メディアの期待に応えて愛ちゃん2世とか五輪を目指す気はなかったし、これからはゆっくりしたペースで楽しく卓球に取り組ませようと思っていたから、お断りした方がお互いのためだと思ったんです」
体育館の床に座って優勝インタビューを受ける美宇の姿を見ながら、真理子は「よし、これで終わり!」と解放感を味わっていた。
そのとき、予想外のことが起きた。
毎度のごとく「夢は?」と質問された美宇が、何のちゅうちょもなくハッキリとした口調で「夢は五輪で金メダルです」と答えたのだ。
母を驚愕させた娘の覚悟
真理子は、慌てた。
もっと幼い頃からずっと美宇の夢はキティ屋さんで、「夢は五輪で金メダル」なんて、取材のときはもちろん、家でも一度も口にしたことはなかった。このときは誘導尋問ではなかったが、いつも聞かれる質問だから、大人に気を使ったのかもしれない。
「もう期待に応えなくていいんだよ。本音を言いなさい。夢はキティ屋さんでしょ?」
思わず横から助け舟を出した真理子は、次の瞬間、あまりの衝撃に言葉を失った。美宇は、かつてない強い口調でこう告げたのだ。
「ママ、違うの。もう美宇の夢は、キティ屋さんじゃないの。五輪で金メダルなの」
美宇の言葉で、五輪に挑戦開始
──美宇の決然とした表情は、真理子に4年前の出来事を思い起こさせた。生まれたときから物静かで、わがままを言ったこともなかった娘が、3歳半になって初めてした自己主張が「ママの卓球教室に入れて!」だった。スカートをつかんで泣き叫びながら訴える娘の姿を見て、真理子は「この子は本気だ」と直感した。
同じように、それまで取材を受けるたびに困った顔で真理子を見て、「ママ、何て答えればいいの?」と不安げだった美宇が、7歳ながら何かを決意するように発した「夢は五輪で金メダルなの」という迷いのない言葉から、圧倒的な強い意志を感じ取った。
このとき、真理子は「覚悟を決めた」という。
「この子は、本気で言っている。それなら、美宇が五輪で金メダルを目指すために、最高のサポートをしていこう」
この日から、母と娘の「五輪への挑戦」が始まった。
*続きは明日掲載します。