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『教育という病』著者 内田良氏インタビュー(後編)

過半数が体罰肯定派。スポーツと暴力の関係を考える

2015/11/7
時代を切り取る新刊本をさまざまな角度から紹介する「Book Picks」。金曜日は、話題の新刊著者インタビューを、前後編に分けて掲載する。
今回取り上げる『教育という病』は、組体操、体罰、部活動顧問の荷重労働など、学校現場に存在するさまざまな「リスク」を科学的なアプローチから分析した一冊。今年9月に大阪府八尾市の中学校で発生した組体操事故を、「予見」していた書としても話題になっている。数字を使った議論を教育現場は拒否するというが、そこにはどのような理由があるのか。気鋭の教育社会学者が、非合理的な教育現場の現状を明らかにする。
前編:組体操事故、荷重な部活動……教育現場のリスクが放置される理由

暴力に効果はある。でもやめるべき

──次にスポーツと体罰について伺います。本書では、運動部所属の大学生の約半数が体罰肯定派というデータが示されています。

内田:そうなんです。しかも、そうしたデータを取る際に、「自分が体罰を経験したことがあるか」という項目も聞いているのですが、体罰を経験していないにもかかわらず、「スポーツには体罰が必要だ」という人も結構いる。これは問題だと感じます。

僕は体罰のことを「暴力」と言うようにしているのですが、そのうえで「暴力には効果がある」という立場を取っています。実際のアンケートでは「先生に叩かれて、私は立ち直った」と言う人は一定数いて、その事実を否定することはできないからです。

ただ、「暴力は効果があるけど、それでもやめよう」と言いたい。暴力で人を育てる時代ではなく、みんなで議論をしながら、人を育てていく時代にしなければならない。

暴力や体罰反対派の人は、「暴力は百害あって一利なし」とのスタンスを取りますが、暴力には一定の効果があること、だからこそ続いていることは直視すべきです。「暴力に意味はない」と全否定してしまうと、肯定派の人から「いや、意味があるんだ」と反論されて、議論が前に進みません。

──一方、教室内の体罰に関してはどうお考えでしょうか。授業中に騒いだり、授業妨害をする子どもに手を上げることには、賛否両論があります。

痛いところを突きますね……。自分の中でも結論が出ておらず、本書でもあえて書かなかったテーマです。

スポーツの現場は「明らかにスポーツ活動に関係のない暴力」がはびこっている。一方、教室では、やんちゃをする子どものお尻を叩いたり、もっと言えば、暴力的に向かってくる子どもに対し、つい手が出てしまう先生もいる。

僕は基本的に暴力に反対なのですが、ただ単に暴力反対と主張するのではなく、追い詰められてつい手が出てしまったときの先生の状況や心境にもちゃんと目を向けるべきだと考えています。

ただし基本的に今の時代、暴力はやっぱりやめるべきで、つい手が出てしまう状況をくみ取り、いかにアプローチするかを考えていくべきだと思います。そして、暴力によってなんとか回っている状況を、言論で解決していく方法について、もっとアイデアを出していかなければならないですね。

「善きもの」だからこそ進行する問題

──組体操にしても部活の熱血指導にしても、それらが「善きもの」として扱われ、その結果、聖域化していることを問題視されていますが、そうした感覚は、なぜ生まれるのですか。

教育の問題として代表的なものはいじめですが、本書では取り上げていません。誰しも、いじめは善きものだと考えていないからです。

本書で取り上げたのは、まさに「善きもの」だからこそ進行してしまう問題です。すべての教育行為は、イコール善きものなんです。組体操も体罰も、悪いと思ってやっている人は一人もいません。

だから、なぜこうした事態が進むかというと、まさに「教育だから」と答えるしかない。教育の名の下に、「本人にとって良いものだ、教育的効果があるはずだ」と考えられているから、当然、「それなら、たくさんやりましょう」となる。

他方で、そこに潜む危険性や苦しみは、「善きもの」という判断の前に見えなくなる。本当に見なければならないのは、教育的効果の裏側で、どういう代償があるかということです。

──教育的効果は果たして、客観的に測れるものでしょうか。

測ろうと思えば、定義を行ったうえで測ることは可能です。しかし、測れるのは一部でしかなく、全体的な教育効果はわからないのが現実です。

そのことが、まさに「数字嫌い」を教育界にはびこらせてきたんですよ。「教育は数字で測れるものではない」と一蹴されてしまうと、エビデンスに沿って主張しても、反論のしようがありません。

実は学力の問題も同じです。以前は「学力をペーパーテストの点数で測るなんてけしからん」という風潮が強く、生徒の学力をデータ化するのはタブーでした。

ただ、一部の教育社会学者が「そんなことを言っていたら、何もわからないままだ」と声をあげ、学力テストの結果をデータ化する試みが行われた。結果として、一部ではありますが「親の年収に学力が左右される」といった問題が見えてきたわけです。

教育は宗教的な側面があって、「善いものだからやりましょう」とはいいますが、その効果を検証されるのを嫌うところがある。でもデータで示さないと、ある主張に対し、実証も反証もできないんです。

内田良(うちだ・りょう) 名古屋大学准教授 2003年、名古屋大学大学院 教育発達科学研究科 博士課程後期課程 単位取得満期退学。博士(教育学)。専門は教育社会学。学校生活で子どもや教師が出遭うさまざまなリスクについて調査研究ならびに啓発活動を行っている。著書に『柔道事故』(河出書房新社)、『「児童虐待」へのまなざし』(世界思想社、日本教育社会学会奨励賞受賞)などがある。

内田良(うちだ・りょう)
名古屋大学准教授
2003年、名古屋大学大学院 教育発達科学研究科 博士課程後期課程 単位取得満期退学。博士(教育学)。専門は教育社会学。学校生活で子どもや教師が出遭うさまざまなリスクについて調査研究ならびに啓発活動を行っている。著書に『柔道事故』(河出書房新社)、『「児童虐待」へのまなざし』(世界思想社、日本教育社会学会奨励賞受賞)などがある

髪の色を変えた理由

──データやエビデンスに基づいて物事を判断するのは、ごく当たり前のことに感じますが、教育現場ではそうした見方が生まれにくいのはなぜですか。

実は、大学の教育学のカリキュラムには、数字にもとづいて思考力を鍛えるようなものがほとんどありません。

だから、その下で養成される教員が数字に強くなるはずがない。トレーニングされないから、数字で何かを理解する文化そのものが欠落しています。

例外は養護教諭です。彼ら彼女らは子どもがいつ、どうして、どれくらいの数、保健室に来たかをデータとして記録している。しかし、それを職員会議に持っていっても「教育は、数字じゃないだろう」と一蹴されてしまうと聞きます。

ちなみにツイッターで意見を発信していると、教育学部の学生さんからも反響をもらうことがあります。組体操や体罰についてフラットに考え「これは問題だ」と感じる人もいる一方で、半分ぐらいの人からは反論されます。

最近「先生の言っていることはわかりますけど、金髪はやめたほうがいいと思います」と言ってくる学生がいて、「若くしてそんなこと思うのか……」と悲しい気持ちになりました。

僕がこうした髪の色にしたのは、進学校でグレていた生徒の家庭教師をしたことがきっかけです。彼は髪の毛を染めていたために、先生にほとんど理解されなかった。でもよくよく話を聞くと、彼なりに理屈の通ったことを言っている。そこで、彼の話に耳を傾けていると「今まで出会った大人の中で、初めて内田先生を信頼したよ」と言ってくれた。

話せばわかりあえることもあるかもしれないのに、それ以前でシャットアウトしてしまうのは悲しいことですよね。見た目ではなく、言っていることで判断する重要性をいろんな人に認識してほしいと思い、僕自身が髪の色を変えました。「これからは言論の時代だ」と思うからこそ、そうしているわけです。

──では、教育学部以外の学生が、もっと教員になるべきなのでしょうか。

そうですね。ただ、数字に強ければいいわけではなく、数字では測れない理想論を考えることもすごく大事なんです。教育学にどっぷり浸かり、教育の論理や理想論をきちんと考えながら、かつ、柔軟に数字を使える人材が求められているのだと思います。

──教育現場の現状に風穴を開けるためには、何が必要ですか。

エビデンスに基づく議論をするためには、まずはエビデンスそのものを出すことです。

たとえば、学校事故のデータで言うと、けがの部類や状況が記録されている何百万件のデータが、国や教育委員会のコンピュータの中に眠っているわけです。しかしそうしたデータは、まったく活用されていない。それらのデータが研究者に対してもっと提供されるべきだと思います。

まずはエビデンスを出し、抽象的な教育論と科学的なアプローチを融合させていく。その中で理想の教育を考える文化をつくっていくしかないと思います。

(聞き手:野村高文、構成:野村高文・村井京香、撮影:福田俊介)
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