FIFAコンサルタント・杉原海太インタビュー(第2回)
いかにして海外スポーツビジネスの最前線で職を得たか
2015/10/27
杉原海太はFIFA主催の大学院を卒業後、狭き門を突破し、アジアサッカー連盟(AFC)の職員になることに成功する。
そこで生きたのは、デロイト トーマツ コンサルティング(現アビームコンサルティング)で働いていた経験だった。中東や東南アジアを飛び回り、その仕事ぶりが認められ、2014年、日本人唯一の「FIFAコンサルタント」に抜てきされた。
杉原はアジアサッカー界において、ビジネスマンとしてのスキルをどう生かしたのか。
アジア・パシフィック&中東・北アフリカでチャンピオンズリーグの放映権とスポンサー権利を販売する岡部恭英が話を聞いた。
第1回:日本人初のFIFAコンサルタント。スポーツ業界でゼロからの立身出世
AFCには一度落とされている
岡部:FIFAマスター卒業後にAFCに進むわけですが、入る前からビジョンは描かれていましたか。
杉原:そこでも言葉の問題がありました。卒業時点でも、英語力は働けるか働けないかギリギリという状態。なので、卒業後に海外で働くとは思っていませんでした。日本に戻り、Jリーグやクラブで働けたらと考えていましたから。
実際にAFCの中で僕の履歴書に興味を持った部長がいて、2回の電話インタビューを受けましたが、英語力の問題で落とされています。ただ、別の部長からも電話をもらい、とりあえずインターンで受け入れてもらえました。人によって判断が変わるぐらいの英語力だったということです。
岡部:海外で働くには、運の力も非常に重要になってくると思います。実際に海外の大学院を卒業しても、そのままヨーロッパのスポーツ業界に進める人はほんどいない……。
杉原:そうですね。FIFAマスターを卒業したとしてもほとんどいません。FIFAマスターからFIFAに進む人も、自分のときは年間で1人、今でも3〜4人程度です。
岡部:狭き門ですね。
杉原:ビザの問題がありますから、EU(欧州連合)域内の人々が有利になります。
岡部:日本人となると、ハードルもかなり上がってしまう。
杉原:FIFAも普通の企業や組織ですから、その人材を雇うメリットがあるからこそ、ビザが割り当てられるわけですからね。そういう意味では、FIFAマスターからAFCに進めたことは、はっきり言ってかなりラッキーでした。
当時はAFCが人員を増やしていて、僕の前にAFCに入ったFIFAマスター出身のアジア人が評価されたことから、「FIFAマスターの卒業生は優秀」という評判になっていました。加えて2000年に設立されたFIFAマスターを軌道に乗せるために、FIFAからAFCに多少のお願いもあったと思います。
僕も数カ月のインターンを経て受け入れてもらえましたが、FIFAマスターとAFCの関係性がなかったら、間違いなく入れていなかったです。
AFCに在籍した8年間
岡部:AFC入りはいつ頃に決まりましたか。
杉原:修了前に電話インタビューが2回あり、2回目はちょうど卒業式の日でした。ちなみに落とされた電話インタビューでしたが、合否がわかる前に帰国していました。
岡部:そうだったのですね。
杉原:ただ、入れるものだと勘違いしていたんです。当然連絡は来なくて、落ちたとわかったときはすでに日本にいて、就職活動もほとんどしていませんでした。
そんなときに、AFCの別の部長からインタビューを受けました。落ちたときのインタビューよりも英語はうまくできなかった気もしますが、OKをもらえましたからラッキーでした。
岡部:AFCではデベロップメントに従事されていましたよね。
杉原:そうです。要するにサッカーの普及や支援になります。AFCには8年間在籍しましたが、最初の5年ぐらいはアマチュアサッカーの支援をやっていました。イランやベトナムなどさまざまな国に行き、そこの国協会ではなく県協会の運営サポートなど、地道な仕事でした。
振り返ってみて良かったなと思うのは、それをやることで現地の人々とどのように一緒に働けばいいのか、それぞれの業界がどのように動いているかを理解でき、英語もだんだんと上達できたことです。
岡部:なるほど。
すべてをつぎ込んだキックオフ・プログラム
杉原:すると、5年目ぐらいに上司がいなくなったタイミングがあり、僕が昇格することになりました。新しいプログラムを立ち上げる提案を指示されましたが、それまで働いている間に考えていた改善点やコンサルティング会社時代に培ったノウハウを、すべてそのプログラムにつぎ込みました。
それが各国のリーグやクラブに対する運営コンサルティングプログラムでした。さまざまな国で運営のアドバイスをしているうちに、プログラムが評価され、FIFAとも共同でやることになりました。
岡部:何というプログラムだったのでしょうか。
杉原:キックオフというプログラムです。全部自分でやったとは思いませんが、立ち上げに自身のアイデアが入っています。運営の責任者も務めましたから、ターニングポイントになりましたね。
それに、自分の中でもそこに至るまでの積み重ねが生きたという実感がありました。コンサルティング会社にいたことで運営に対するアドバイスなどのスキルは持っていましたが、業界が違ったこともあり、前職のやり方をそのまま当てはめることはしませんでした。
1年目、2年目ならばできなかったと思いますが、AFCでの5〜6年間で、業界内で深くアジアを見ることによって、どうすれば良いか自分の中でシミュレーションしていたことを組み合わせました。前職のキャリアも、AFCでの積み重ねも無駄になっていません。
岡部:AFCはどういう雰囲気でしたか。
杉原:国籍に偏りはあります。バックオフィスの仕事は、ある程度ローカルな部分なので(AFCの本部がある)マレーシア人が多いですね。一方、デベロップメントや大会運営といった専門的な部分では、外国人の担当者が多いです。
中東アジアが少ないので均等ではないですが、東アジアから東南アジア、南アジアとそれぞれの地域の人材がいます。僕の部下ではインド人とサウジアラビア人が1人ずついました。基本的に、みんなマレーシアのクアラルンプールに住んでいます。
岡部:アジア圏以外の人もいましたか。
杉原:3人の上司につきましたが、最初がアイルランド人で次がマレーシア人。最後がオーストラリア人でした。時期にもよりますが、部長やダイレクターレベルだとヨーロッパ人が入ってきたりします。
スポーツ業界は最初に入り込むことが大変
岡部:FIFAコンサルタントへの転身についてはいかがですか。
杉原:立ち上げたプログラムでFIFAと一緒に働くうちに評価されました。それと、実は立ち上げ当初に非常に高く評価してくれた上司がAFCにいて、その彼が途中でヘッドハントされてFIFAに入ったことも大きかったです。
要するに、実際に一緒に働くことでプログラムを評価してくれた人と、もともと評価してくれていた人の両方がFIFAにいたことで、仕事が認められて業界内移動みたいなかたちになりました。
スポーツ業界は最初に入るときは大変ですが、いったん入ったあとでの転職というのは、初めに入るときと比べれば多少敷居は下がりますね。
岡部:クローズドな業界でもあります。
杉原:そうですね。おそらく、コンサルティング会社時代の僕がFIFAやAFCに履歴書を送っても、相手にもされなかったと思います。
岡部:同じ杉原海太という人間で、同じスキルを持っていたとしてもですよね。
杉原:偉そうなことを言うわけではないですが、海外に一度も行ったことのない人間が「10年後にFIFAで働きます」といえば「何言っているんだ」という話だったと思います。何しろ、アジアですら行ったことがなかったわけですから。
(構成:小谷紘友、写真:福田俊介)
*本連載は毎週火曜日に掲載予定です。