荒木重雄インタビュー(第1回)
野球界のイノベーターが明かすロッテ改革の舞台裏
2015/10/21
荒木重雄。プロ野球の世界でこの名前を知らない人はいないだろう。
2005年に千葉ロッテマリーンズに入団。事業本部長としてチーム改革を支え、その年に31年ぶりのリーグ優勝と日本一を果たした。アイデアマンとしても知られ、スタジアムを試合観戦だけではなく「8時間滞在型ビジネス」に変えた人物としても知られる。現在は“侍ジャパン”の事業戦略を担当している。
その荒木氏、2008年から2009年までロッテ球団に在籍しながら日本サッカー協会の広報委員を務めるなど、異例の経歴も持つ。サッカー界以外の人物から学ぶ特別編の第1弾として、ロッテ球団で行った数々の改革について話を聞いた。
元エンジニアがまったく知識のないスポーツビジネスの世界へ
──2005年、千葉ロッテマリーンズに入られた経緯を教えていただけますか。
荒木:もともと私はIBMで10年くらいエンジニアをしていました。その後、営業系にキャリアチェンジをし、プロ野球に入る前までは、ドイツ系のコンピュータ通信会社で日本法人の社長をやっていました。ところが2004年、プロ野球の2004年問題が起こったのです。
初めてのストライキや、近鉄とオリックスが一緒になって新球団となったり、堀江貴文さんや三木谷浩史さんが登場したり……まさにあの年です。
自分は小学生から野球が大好きで「なんでこんなことが起こってしまったのか……?」と真剣に考えました。スポーツには3つあります。見るスポーツ、するスポーツ。そして経営するスポーツ、つまりビジネスです。この2004年問題を契機にスポーツビジネスにがぜん興味が湧いてきたのです。
どうやったら勉強できるのか。ネットで検索してみると広瀬一郎さんが主催されているスポーツマネジメントスクール(SMS)を見つけました。広瀬さんは元電通、2002年のワールドカップ招致に尽力された方で、門外漢の私ですらその名前を知っていました。スポーツ界に転職するとかしないとかは別に、まず勉強してみたかった。すぐに申し込み、SMSに飛び込みました。2004年の夏でした。
ロッテ球団社長が受講生の中にいた
──サッカー界で広瀬さんの名前を知らない人はいませんね。場所はどちらだったのですか。
東京大学でした。広瀬さんの母校なんです。そこへ行って勉強を始めたとき、運命的な出会いがありました。濱本英輔さんと出会ったんです。当時のロッテ球団の社長で、元国税庁長官だった方です。
──すごい出会いですね。濱本さんは講師ですか、受講生ですか。
同じ受講生でした。濱本さんも2004年問題の真っただ中で、今後ロッテをどう経営していくかで勉強に来られていました。そこでロッテが球団改革をするという話をされて、「やってみないか」というお声がけをいただいたんです。
私は当時41歳、スポーツビジネスはまったく初めて。随分悩みましたが、やはり球団改革に興味があったことと、もうひとつ大きく背中を押してくれたのがボビー・バレンタイン監督(当時)の存在。
外資系でずっと勤務していたのですが、アメリカ出張の際はいつもMLB観戦をしていました。アメリカでボビーは一流の監督でしたので、その方と現場で直接コミュニケーションを取りながらいろいろと学べるチャンスがあるのでは、と。また事業と現場の二人三脚でいい仕事ができるのではと思い、ロッテへ入る決断をしました。
「球界初」の話題を徹底的にメディアへ提供
──今やいろんなスポーツクラブが「ロッテ改革」をヒントにしているように思います。まず何から着手されたのですか。
最初は「棚卸し」をしました。棚卸しというのは徹底した現状把握です。特に時間をかけたのがメディアの現状でした。スポーツ経営ではメディアとの関わり合いが一番の課題ですから。
普通の産業とスポーツ産業を比べた場合、地域や行政が絡むなど、ステークホルダーの違いもありますが、ビジネスサイドを考えたときの絶対的な違いは「メディアとの関係」です。
ご存じの通り日本のメディア環境は首都圏にキー局があって、地方は系列局としてローカル局がある構造です。これは首都圏型のスポーツクラブの宿命ですが、このキー局にエントリーしない限りテレビ露出はないわけです。どうメディアと関係を築くか。最初にぶち当たった課題です。
──それはサッカーをはじめ、多くのスポーツも抱えている問題です。
「球界初」とか「日本一」というフレーズにこだわって、話題をマスメディアに提供しました。
今でこそ当たり前となりましたが、まず“挑発ポスター”。これは球界初でした。たとえば当時、東北楽天ゴールデンイーグルスが半世紀ぶりの新球団として話題となっていました。そこで「あなた達があれこれ話題を作っていた頃、ボク達は黙々とカラダを作っていました。」というキャッチです。
楽天との開幕戦のポスターでこれをやりました。全局が取材に来て、一気にメディアジャックとなりました。2年目の開幕戦の相手は(前年優勝の)北海道日本ハムファイターズだったので「ハムの賞味期限は、意外に短い」というもので(笑)、こちらも話題になりました。
選手とファンが一緒に優勝パレードで行進
──それはすごい反響だったでしょうね。
そこからスピードアップしていきました。
まず球界初の全席自由席を実現させました。しかも“360°ビアスタジアム”としてビールを半額とし、全席自由席なので普段とは違った席からビールを飲みながら楽しんでいただく企画です。
また当時2005年はナイトゲーム全試合で花火を打ち上げました。4月に花火なんか聞いたことがありませんよね(笑)。これも球界初、というか世界初でしょうか。そして毎試合○○DAYとしてイベントを打ちました。
そうしているうちに交流戦で優勝して賞金をもらえたので、海浜幕張駅から球場までを結ぶ路線バスにファンの背番号である「26番」をラッピングしました。こういった取り組みも恐らく球界初だったと思います。
しかも、優勝パレードではそのバスにファンが乗って選手と一緒にパレードを行ったのです。パレードは商業圏からスタートしましたが、最後の締めくくりはファンが多く住んでいるベイタウンという一般のマンション群。これも球界初です。
しかもこのパレードはファンが仕掛けて、ファンが準備したのです。よくファンとチームとの一体化というのは聞きますが、われわれは「野球観戦」から「野球参戦」を標榜しました。
ファンが一緒に戦わないと意味がありません。だからパレードにファンも参加してもらおうと選手が乗っているバスの後ろにもう1台バスを走らせたのです。そこには、ユニフォームを着たファンに乗ってもらいました。ファンも一緒に戦ったからです。
戦略とは戦いを略すこと。つまり戦わないこと
──非常に面白い取り組みですね。ほかにもいっぱいありそうです。
あと新人選手の入団式です。通常は本社とかで白いテーブルで記者会見をするじゃないですか。あれは違うと思いました。われわれの仲間になるんだから、当然ファンと一緒にシェアしなければいけない。そこで幕張のコンサート会場を貸し切って初めてのユニフォーム姿をファンに披露したのです。
これは応援団と連携しました。応援団が最初のかけ声を選手にかけてやるわけです。選手はその場で最初のサインボールを会場へ投げ込む。そういうお披露目の会もファンと一緒なんです。
──そこまでやるのは、ほかの球団でもJリーグでもないですね。
とにかく球界初、日本一にこだわってどんどん手を打っていきました。
一つひとつが話題になって結果として「日本一のファン」と称してもらいました。またメディアから“日本一のファンサービス”と何度も取り上げていただきました。
これは戦略通りなわけですが、われわれの戦略の考え方は少し違います。読んで字のごとく、戦略とは戦いを略すと書く。つまり戦わないこと。なぜなら首都圏だと(メディア露出の点で)巨人に勝てるわけない。横浜に、ヤクルトに、西武に勝てない。戦ってはダメだと。あくまで戦いを略すのです。これが千葉ロッテ流です、千葉ロッテだからできたのです。
そこを追求して生み出されたのが「洋服のサイズ戦略」です。これは次回詳しく話しましょう。
スポーツビジネスアカデミーという新しい教育プラットフォーム
──最近「スポーツビジネスアカデミー」という、まったく新しい教育事業を立ち上げましたね。
きっかけは2020年の東京五輪なんです。
2020年に対して、今やっている自分の事業とスポーツを掛け算して、どういうマーケティングができるかを考えている人たちと、どうやったらスポーツ業界に入れるんだろうと考えている人たちの両方に受け皿が少ないのが現状です。
そこでニューヨークに拠点を置くスポーツマーケティング会社を経営する鈴木友也氏と共同で「超実践派」をキーワードとした実践型アカデミーを立ち上げました。
自分は通っていたSMSで人生が変わりました。調べると履修生の53%が今のスポーツ業界で活躍しているんです。また700人弱の卒業生の中でノンスポーツの人がSMSを介して20%、つまり5人に1人がスポーツ業界にジョブチェンジしています。これはすごい数字です。今後はこういった人がどんどん増えていくと見ています。
(撮影:福田俊介)
*本連載は毎週水曜日に掲載予定です。