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FIFAコンサルタント・杉原海太インタビュー(第1回)

日本人唯一のFIFAコンサルタント。スポーツ業界でゼロからの立身出世

2015/10/20

スポーツビジネス業界には、知られざる職業がある。

FIFA(国際サッカー連盟)の公認コンサルタントとして、世界各国のサッカー協会やリーグにアドバイスする「FIFAコンサルタント」はそのひとつだ。常勤は世界で約10人しかおらず、日本人としては杉原海太が唯一名を連ねている。

杉原はいかにしてサッカー界のエリートコンサルタントになれたのか。

アジア・パシフィック&中東・北アフリカでチャンピオンズリーグの放映権とスポンサー権利を販売する岡部恭英が話を聞いた。

32歳で無収入。自宅浪人を経てFIFAマスターへ

岡部:杉原海太さんは東京大学から大学院に進み、卒業後にコンサルティング会社に就職。退職後にスポーツ学に関する大学院であるFIFAマスターに入学されましたね。のちに元日本代表の宮本恒靖さんが入って話題になった大学院です。杉原さんは先輩にあたるわけですが、どのようなことを学ばれましたか。

杉原:個人的な意見になりますが、FIFAマスターは、ほかの大学院に比べてさまざまな分野を広く学びます。3〜4カ月かけてスポーツの社会学や歴史学の勉強をして、次の3〜4カ月でマーケティングやマネージメント、最後の3〜4カ月で法律関係を学びました。

岡部:FIFAマスターという名前から、実務面の応用を数多くこなすことを想像していましたが、教養面の基礎をしっかり学ぶのですね。

杉原:結構アカデミックでしたよ。

岡部:入られた当時は、何歳でしたか。

杉原:FIFAマスターに入ったのは、2004年で33歳でした。その前に、まったく英語ができなかったので英語の勉強のために1年間の自宅浪人期間もありましたので、会社を辞めたのは2003年4月です。

岡部:30歳を超えて無収入になるとは、相当な覚悟ですね。

杉原:コンサルティングの仕事は楽しかったです。ただ、7年半務めた期間でも、4年ほど経ったあたりから、楽しいけれどこのまま50歳60歳まで続けるべきかどうかを考え始めました。もっと楽しいことがあるのではないか、と。

ひかれたレールへの疑問もあったと思います。僕らの時代は、良い大学に行って良い会社に入るという概念がありました。大学卒業時はまだ具体的な目標がなく就職してしまいましたが、だんだんそれに疑問を持ったという感じです。

杉原海太(すぎはら・かいた) 1971年生まれ。1990年東京大学に入学。1996年大学院修了後にデロイトトーマツ(現アビーム)コンサルティングに入社。2003年に退職。1年間の浪人生活後、2004年FIFAマスターに入学。2006年から8年間働いたアジアサッカー連盟(AFC)では、コンサルタントとしての経験を生かして、アジア各国の協会やリーグの戦略企画や業務改革をアドバイス。仕事ぶりが認められ、2014年にFIFAコンサルタントに抜てきされた。

杉原海太(すぎはら・かいた)
1971年生まれ。1990年、東京大学に入学。1996年、大学院修了後にデロイトトーマツコンサルティング(現アビームコンサルティング)に入社。2003年に退職。1年間の浪人生活後、2004年FIFAマスターに入学。2006年から8年間働いたアジアサッカー連盟(AFC)では、コンサルタントとしての経験を生かして、アジア各国の協会やリーグの戦略企画や業務改革をアドバイス。仕事ぶりが認められ、2014年にFIFAコンサルタントに抜てきされた

やらなかったら死ぬときに後悔すると思い決断

岡部:スポーツ業界で仕事をしたいという考えはいつ頃からありましたか。

杉原:僕はまったくサッカーをやっておらず、むしろ太っていたコンプレックスもあり、スポーツができないタイプでした。高校までスポーツはやっていませんでしたが、大学入学後に軟式野球とテニスを始めたことで、学生生活が充実して人間として非常に学ぶことがありました。

人生で一番楽しかったことの一つでしたし、30歳くらいでこの先に何をやっていこうと思ったとき、パッとスポーツが浮かんできました。

当時は、スポーツの仕事に就く方法が確立されていませんでしたが、インターネットで調べていると、コンサルティング会社を辞めて留学してスポーツ業界に入った人を知り、「その手があったか」と。そうなるとワクワクして「やらなかったら死ぬときに後悔する」と思いましたね。

岡部:のちに「会社を辞めなければ良かった」とは思いませんでしたか。

杉原:全然思わないですね。それは働いていた会社が悪いというわけではなく、人生でやりたいことのベスト10があるならば、コンサルティングの仕事は10位以内に入っていました。ただ、スポーツの仕事はベスト3に入っていましたから。

岡部恭英(おかべ・やすひで) 1972年生まれ。 スイス在住。サッカー世界最高峰CLに関わる初のアジア人。UEFAマーケティング代理店、「TEAM マーケティング」のTV放映権&スポンサーシップ営業 アジア&中東・北アフリカ地区統括責任者。ケンブリッジ大学MBA。慶應義塾大学体育会ソッカー部出身。夢は「日本が2度目のW杯を開催して初優勝すること」。10月からNewsPicksのプロピッカーとして日々コメントを書き込んでいる

岡部恭英(おかべ・やすひで)
1972 年生まれ。スイス在住。サッカー世界最高峰CLに関わる初のアジア人。UEFAマーケティング代理店、「TEAM マーケティング」のTV放映権&スポンサーシップ営業 アジア&中東・北アフリカ地区統括責任者。ケンブリッジ大学MBA。慶應義塾大学体育会ソッカー部出身。夢は「日本が2度目のW杯を開催して初優勝すること」。10月からNewsPicksのプロピッカーとして日々コメントを寄せている

あえて日本人がほぼいない道を選んだ

岡部:ちなみに、FIFAマスターの存在はどこで知ったのでしょうか。

杉原:FIFAマスターもインターネットで見つけました。ただし、当時は名前も違っていました。FIFAマスターの運営教育研究機関であるCIES(スポーツ研究国際センター)というところで、よく見てみないとFIFAだとわからないくらい。

2012年に宮本恒靖さんが入学するまで日本では誰も知らないようなところで、アメリカに行く選択肢もありました。しかし、費用や年齢などを考慮すると、1年で修了できるヨーロッパがいいかな、と。

ヨーロッパにはリバプール大学サッカー産業MBAがありますが、すでにたくさんの日本人がそこに行っていた。自分はあまり人が行ってないところに行こうと思い、FIFAマスターを選びました(編集部注:杉原の以前に1人だけ日本人がいた)。

岡部:USP(ユニーク・セリング・プロポジション)をつくるということですね。

杉原:実際に「30歳過ぎて思い切りましたね」と良く言われました。そもそも留学が初の海外経験でしたし、不安もあって目の前の日々がつらいときも多かった。ただ、基本的にワクワク感が強く、夢中でやっていましたね。

陸上競技の為末(大)さんが好きで、ツイッターも頻繁に見ますが、夢中と努力の話をされていて。夢中は努力していることがわからないぐらいの状態で、努力は歯を食いしばって頑張るという感覚。夢中になっている人のほうが基本的に強いという話をされていて、それはしっくりきました。

僕自身、やりたいことを見つけた瞬間に「いけるかな」というか、見つけた時点で何となく6〜7割はうまくいくという感覚があったような気がします。そうなれば、嫌でも頑張りますから。

岡部:さまざまな不安がありながらも、非常に充実していたということですね。

杉原:ただ、行ってみて苦しかったことは言葉が通じないこと。自宅浪人して勉強していたので読み書きはでき、テキストがあるので授業は何とかなりましたが、会話はわかりませんでした。しかも、FIFAマスターは国際経験を積ませるため、意図的にさまざまな国籍の人間を入学させます。僕の同期は29人でしたが、21カ国の人々がいました。

岡部:まさにダイバーシティですね。

杉原:そこにいきなり、33年間ずっと日本にいた人間が飛び込んだ。会話ができず黙ってしまうので、「飲みに行こう」と誘われても気が進みませんでした。

ただし、最初は無口な日本人という感じでしたが、そこを突破する出来事がありました。

よくイジってくれていたアルゼンチン人から、教授のものまねをやれというむちゃ振りがきたんです。それを大げさにやってみたらウケて、みんなの前でやっても大爆笑。ほかの教授のものまねもやり始め、そこから「あいつは面白い」ということで、コミュニケーションも取れるようになりました。

岡部:そういう言葉ではないコミュニケーションはとても大事ですよね。

杉原はFIFAの依頼で、体制が整っていない国のサッカー協会に派遣され、コンサルタントとしてアドバイスを行う。この取材翌日にはカリブ海に向かった

杉原はFIFAの依頼で、体制が整っていない国のサッカー協会に派遣され、コンサルタントとしてアドバイスを行う。この取材翌日にはカリブ海に向かった

FIFAマスターで得たこと

杉原:今振り返ると、結局のところ東大を卒業して、コンサルティング会社に入ったことで、狭い世界の中で嫌なプライドがあったと思います。そこから言葉がまったく通じないところに行き、「33歳にもなって何やっているのかな」と思いながらも、イジられたり周囲と馴染むことで、修士を取ることができました。

新しい自分をつくる過程で、変なプライドを崩せたことが、本当に一番の財産と言えますね。FIFAマスターで学んだことや知識はもちろん役立っていますが、国際的な環境での立ち居振舞いの基礎も学べました。

岡部:コミュニケーション能力と自分の殻を破る行動力。この2つが非常に大事だったのですね。

杉原:僕は怠けていて、受験英語はできても会話ができないという状態を放っておきました。そのツケを凝縮して33歳から34歳で払うかたちで、語学の覚えも若いときと違って効率性はいまひとつだったと感じますが、「これだ」というものが見つかり、夢中でやれたことが良かったと思います。

もちろんコンサルティング会社で、ある程度のビジネススキルを身に付けていたからこそ、やり抜くことができた部分もあると思います。

岡部:コンサルティング会社での経験がなかったら、今やられているFIFAコンサルタントにはつながっていなかったですか。

杉原:間違いなくつながっていないですね。FIFAマスターで広範に学ぶとき、マネージメントやマーケティングは僕にとってわかることも多く、確認のような感覚がありました。しかし、社会学や歴史学、法律はまったくの素人。

現在はFIFAコンサルタントとして、各国の協会やリーグで運営を俯瞰して、戦略企画・業務改革・ガバナンスのアドバイスをしており、法律や歴史的背景の理解が必要だと感じています。

FIFAマスターが、僕自身のキャリアに非常にマッチしたのは、ひとつはダイバーシティの環境で、もうひとつが学んだ中に自分自身の強み(コンサルタントの知識)があったこと。何も強みがなかったならば、広く浅くで終わっていたと思いますが、強みがベースになって、それを補完するかたちで広く学べたのが良かったです。

FIFAマスターの効果は卒業直後には実感できませんでしたが、その後ジワジワと感じられました。やはり幅広い分野をカバーしていると、その後の伸び方が違います。知識の幅が広がったことで、法律に関してもどこがわからないかがわかり、自分で調べることができる。

昔はわからないところがわからずにいましたから。そういう意味でもFIFAマスターは非常に役立ちました。

(構成:小谷紘友、写真:福田俊介)

*本連載は毎週火曜日に掲載する予定です。