「境界線が消えた世界」で求められる個人と企業

2015/10/12

日本はプロデューサーが少なすぎる

佐々木 竹中さんは政策にかぎらず、異分野の知をつなげてプロデュースするのがとてもうまいという印象があります。しかし、日本にはプロデュースがうまい人が本当に少ない。プロデューサー不在だと、もう何十年も言われているのに、全然出てきません。なぜなんでしょうか。
竹中 ひとつは、やっぱり縦割りだからですよ。縦割りでは出てきません。
佐藤 プロデュースって、いろいろな業界や産業を横断的に動ける人間じゃないと難しいですよね。どこに何があって、これとこれを組み合わせるといいものができる、という発想をするには、そもそもカバレッジが必要ですが、そのカバレッジを持つ人が少ない。
佐々木 そうですね。大企業でもそんなに人が辞めないし、そこで完結したムラ社会みたいなものが、いまだにありますよね。そうすると横に広げていくことに対するインセンティブが、社会のメカニズムとして存在しないということなんでしょうか。
佐藤 相当特殊な人間じゃないと、そういう動きはしないですよ。変人ですよね。
佐々木 ああ、変人と呼ばれる(笑)。

1つの業界・職種に固執することの弊害

竹中 経済政策を研究している人でも、実際に政策をやったことのある人ってほとんどいないわけでしょう。このことをとってみても、横の移動ってほとんどないんですよ。研究者は一生研究者。政治家は一生政治家。官僚は一生官僚。そうすると、世の中を動かせないんです。
佐々木 戦前はけっこう人間が移動していたと思いますが。
竹中 まったくそのとおりですね。戦前はものすごく横の移動があって、むしろ定着率が低いということが社会問題になっていたんです。終身雇用・年功序列はまだ非常に新しい制度なのに、それを日本的な制度だと思い込んで維持しようとしているところに問題があるわけですよ。
佐藤 でも時代が進んでいくと、職業でもなんでも、分類が進んで細かくなっていく。一回分類ができてしまうと、分類そのものを疑える人が少なくなるでしょう。「昔はこれとこれ、実は一緒だったよ」と言えなくなる。
レオナルド・ダ・ヴィンチは非常に幅広い分野で才能を発揮したといわれていますが、当時はまだ分類がなかったので、自然科学も社会科学も同じだっただけなんですよね。
竹中 そのとおりです。それがInstitutionalization(制度化)なんですよね。それは経済や政治も同じです。アダム・スミスは、論理学と哲学を教えていた人です。当時は経済学というジャンルがなかったから。
佐藤 一回カテゴライズしちゃうと、人間はその中から出られなくなってしまう。ですから枠そのものを一回取っ払って、吹っ飛ばす力がないと、なかなか今は横断的な動きをするのが難しいのかなと思います。
竹中 それに一種の美学の世界があってね、その中にいるとそれなりに心地いいんですよ。経済学の論文のいくつかは、現実にほとんど役に立たないんだけど、一種の形式美を持っている。その形式美の中に身を置く心地よさ。それに慣れちゃうと楽だし、そこから外に出るリスクや労力を考えると、絶対中にいるほうがいいですよ。大企業の中に1度入ってしまうと、嫌なこともいっぱいあるけれど、その中にいるほうが楽なのと似ています。
佐藤 はい。人間の性ですよね。習性に逆らえない。