いつまでもミステリアスで、腹立たしく、そして愛しい国
モスクワ、「見せかけのバリアフリー」が市民の“想像力”を鍛える
2015/10/4
片側4車線5車線は当たり前
この1〜2年で、モスクワの街でもシェアバイクの導入が始まり、中心地ではあちこちに駐輪場を見るようになった。
地下鉄やバスは、安価で本数も多い便利な交通手段ではあるが、どの公共交通機関を使っても、最寄りの駅から徒歩20分以上かかるデッドスポットのようなエリアも結構あり、そのような場所では自転車が使えれば大変便利だ。
とはいえ、現実には、モスクワで自転車を実用的に利用するのはなかなか難しい。
それは、万年渋滞の道路を埋めつくすマナーの悪いドライバーたちのせいでも、自転車専用道路が設置される端から駐車場と化すからでもなく、それ以前に、モスクワの歩道がバリアだらけであることに原因がある。
たとえば、この街の道路は片側4〜5車線は当たり前、7車線ともなれば、その道幅は50mにもなる。その広大な道路の上を横断する歩道はほとんどなく、歩行者は地下道を渡らなければならない。
そんなわけで、モスクワにはたくさんの地下道があり、ひとたび外に出れば地下道を使わずに移動することはまずない。
地下道とはすなわち、階段を下りて上る作業を伴う道であり、それは、歩行者だけでなく、自転車もバギーも車椅子の人も、すべての歩道利用者が強いられる関門だ。
スロープが設置されている場所もあるが、利用している人を見かけたことはほとんどない。というか、利用できないのだ。
一番多いスロープは、階段の上に少し太いカーテンレールのようなものを2本渡しただけの簡易な“バリアフリー”。階段と同じ角度の勾配は、一見して車椅子の人が自力で上がるのは不可能だし、バギーを押して上がるのも大変そうだ。
そもそも細いレールが2本引いてあるだけなので、そこを通ることができるのは、そのレール幅に合ったものだけ。最近流行りの三輪バギーなどは、もとより対象外。
レールではないスロープをつくっている場所もあるが、その勾配はやはり階段と同じ。車椅子で上るには屈強な腕力が必要だし、下りるときは恐怖のジェットコースターだ。
本当にまれに、エレベーターが設置されている場所もある。その一つがわが家の近所にあるのだが、それが動いているのを見たことは一度もない。
この街のバリアフリーは、それらしき設備を設置した時点でその目的が達成されている。ハンデのある人の生活の一助になるかどうかは、また別の話なのだ。
「私がエレベーターだ!」
一夜にして社会のシステムを根底から覆されてから、20年余り。国が豊かになって、表面的には欧米となんら変わらない発展を遂げているが、暮らしてみると、その多くがハリボテであることがわかる。その一つが、見せかけのバリアフリーだ。
では、こんなハリボテの街で、人々がどのようにその空虚を埋めているのか。
ある日、前述の不動のエレベーターの前で、バギーを引いた女性が佇んでいた。私は、「もしかしたら、動くのかもしれない……」という淡い期待を抱いて、その様子を見ていた。すると、そばの公衆トイレの見張り番をしているオバちゃんが彼女に近づき「それは動かないよ」と。女性はとても残念そうな顔をしていたが、私も相当ガッカリした。
だが、次の瞬間、近くで清掃作業をしていた男性が近づき「私がエレベーターだ!」と言いながら、バギーをひょいと持ち上げて階段の下まで運んで行った。おそらく、地下道を渡った反対側の階段でも、違う“エレベーター”が彼女を助けてくれるはずだ。
これは実は、まったく日常的な出来事。地下道に限らず、バギーに限らず、たとえば大きな荷物をもって階段を上ろうとしている人がいれば、誰かが必ず手を貸している。
お上がつくったハリボテの社会システムの体裁を保っているのは、いつも市井の人々なのだ。
どんな不便も理不尽も、助け合ったり、皮肉って笑い飛ばしたりするロシア人の姿を見て思うことがある。
不便な生活は、創意工夫する力を育む。システムが守ってくれない世界を生きることは、困難を前に立ちすくむ誰かの姿に、明日の自分を重ねることなのかもしれない、と。
翻って、不自由なく安全に暮らせる日本は、本当に素晴らしい。でも、なんでも一人で解決できる世の中は、他人の不便に思い至る想像力を鈍らせるのかもしれない、と思ったりもする。
暗くて寒くて怖い国、ロシア。そんなステレオタイプな偏見を持っていたのは、ほかでもない、7年前の私自身だった。
この国の暮らしは決して楽ではないし、いろんなことが日本よりも何周も遅れている。
それでも、学ぶべきところはとても多い。
発展し続けることだけが豊かになることでもないし、弱者を助けるのはルールやシステムじゃなく、人なのだ。
ロシアとは、ただ信じるものだ
頭でロシアはわからない。
それを計る定規もない。
それはとても特別で
ロシアとは、ただ信じるものだ。
19世紀ロシアの詩人、フョードル・チュッシェフの言葉は、何度も国のかたちを変えてきた今もなお、この国を的確に表していると思う。
ロシアを論理的に言葉で説明するのは難しい。私が紹介できるのは、一つの側面から捉えた、一つのロシアでしかない。そのロシアでさえ、本当はとてもあやふやなものだ。
もっと厄介なことに、この国は、わかればわかるほど、“わからない”ということがわかる。それでも、確かにロシアを信じられるようにもなるのが、なんとも不思議なところだ。
私の中のロシアはきっと、いつまでもミステリアスで、腹立たしく、そして愛しい国として存在し続けるのだと思う。
本稿をもちまして、私が担当のモスクワ編は最後となります。このような機会をくださった、編集の佐藤留美さん、木崎伸也さんには心から感謝申し上げます。
そして、何よりも読者の皆さま。短い間でしたが、拙い私にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。拙稿を通じて、少しでもロシアが面白いと思っていただけましたら、大変幸せです。
<連載「『駐在員妻』は見た!」概要>
ビジネスパーソンなら一度は憧れる海外駐在ポスト。彼らに帯同する妻も、女性から羨望のまなざしで見られがちだ。だが、その内実は? 駐在員妻同士のヒエラルキー構造や面倒な付き合いにへきえき。現地の習慣に適応できずクタクタと、人には言えない苦労が山ほどあるようだ。本連載では、日本からではうかがい知ることのできない「駐妻」の世界を現役の駐在員妻たちが明かしていく。「サウジアラビア」「インドネシア」「ロシア」「ロサンゼルス」のリレーエッセイで、毎週日曜日に掲載予定。今回は「ロシア駐在員妻」編です。
【本文執筆】りり
ドイツでの3年を経て、現在駐在生活10年目。モスクワ在住のブロガー。おそロシアで、おもロシア。究極のツンデレ国を素人目線でご紹介します。