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【第9回】日本女子レスリングの名指導者

レスリング王国の父。20人のメダリストを育てる栄和人の“狂気”

2015/9/25

ロンドン五輪で金メダルを獲得した吉田沙保里、伊調馨(ともにALSOK)、小原日登美(自衛隊体育学校)をはじめ、女子レスリングでオリンピック・世界選手権メダリストを20人も育てた上げた名将と聞いてもピンとこない人でも、吉田によく肩車されているスキンヘッドと言えば、お馴染みだろう。

女子レスリングの名門・至学館大学(旧・中京女子大学)を率い、日本レスリング協会女子強化委員長、さらに今年の春からは男子フリースタイル・グレコローマンスタイルを合わせた3スタイルの強化本部長を務める栄和人だ。

9月7~12日にアメリカ・ラスベガスで行われた世界選手権。来年のリオデジャネイロ五輪の予選を兼ねたこの大会で、48キロ級・登坂絵莉(至学館大学)、53キロ級・吉田、58キロ級・伊調が金メダル、63キロ級・川井梨紗子(至学館大学)が銀メダル、69キロ級・土性沙羅(至学館大学)が銅メダルを獲得した。

オリンピック実施6階級中5階級でオリンピック出場権をつかんだ全員が、栄の教え子である(※5人は12月に行われる全日本選手権に出場さえすれば、日本レスリング協会がリオデジャネイロ五輪代表選手に内定する)。

練習は納得するまで終わらない

コーチとして栄は、どこがすごく、ほかの指導者とどう違っているのか。

レスリング関係者が口をそろえて真っ先に言うのは、栄の練習の厳しさだ。本連載の第1回「最強の遺伝子を継ぐ女子戦士~登坂絵莉」でも伝えたが、栄は女子選手といえどもいっさい妥協することがない。

栄自ら至学館大学の道場近くに用意した寮に選手たちを住まわせているため、時間などお構いなしだ。午後のマット練習で選手たちに気合いが入っていないと判断すれば、午後7時、8時になろうが納得するまで練習は終わらず、ときには日付けが変わることすらある。

トコトン“追い込む”ことができるのが栄である。ほかのコーチではそこまではなかなかできないが、なぜ栄はできるのか。

吉田は初のエッセイ『明日へのタックル』で次のように書いている。

「『この指導者についていけば、必ず世界チャンピオンになれる』という信頼関係があります」

だからこそ、どんなに練習がキツくても、選手たちは必死でついてくるのだ。

厚い信頼を寄せ合っている栄和人と吉田沙保里(ZUMA Press/アフロ)

厚い信頼を寄せ合っている栄和人と吉田沙保里(ZUMA Press/アフロ)

選手に「狂え」と叱咤

では、栄が選手と信頼関係を築くもとは何か。それは24時間365日、自らの全精力を使って、「自分を頼ってきてくれた選手を育てる」という覚悟だ。

大学の教授としての授業や仕事もあれば、協会やJOC(日本オリンピック委員会)などでやらなければならないこともある。もちろん、家族も。栄家には、カワイイ盛りの赤ちゃんだっている。

それでも、選手の練習を見続け、日常生活にも目を配り、「長所と短所を追及し、本人以上にわかり、世界で通用する武器となるモノを徹底的に磨き、苦手な点を鍛え抜く」。

栄の練習を見た者は、間違いなくその場の雰囲気に圧倒されるだろう。栄は選手たちに平然と、何はばかることなく「狂え!」と命ずる。

「大きな目標があるなら、狂ったように練習に打ち込むことも必要なんだ」

それが、栄の指導者としての信念だ。道場に汗が飛び散り、ときには湯気さえ上がる中で、文字通り一心不乱、練習に集中する選手たちを見守る栄の目は、選手以上に尋常ではなく、鬼気迫っている。

獲得基準は「向上心と体力」

栄が選手をスカウトする際に最も重視するのは、「向上心、そして体力」だと言う。

「中京女子大に来て、最初に獲りに行ったのがロンドンオリンピック金メダリストの小原日登美(旧姓・坂本)でした。八戸まで出向いてね。彼女は“世界”を目指すという向上心にあふれていましたよ。体力も抜群。大学に入学して初めて連れていった代表合宿でも、最初から常に先頭を走っていて。それ以来、“向上心と体力”が基準というか、そこを見るようになりました」

裏を返して言えば、向上心と体力があり、自分が課すどんなに苦しい練習にも耐え、逃げずについてくることができれば「世界チャンピオンになれる」ということだろうか。

「精神的にも肉体的にも、タフな奴でないとね」

女子レスリングを誰より熟知

さらに、吉田、伊調が所属するALSOKの大橋正教監督は、栄の優れた点は「女子のレスリングを誰よりも知っている」ことだと断言する。

「男子はあれができるんだけど、女子はできないんだよ。あそこで立てない。あそこから投げられないんだなあ、女子は」

大橋は栄と試合を見ていると、よくそんなことを耳にする。

男子と女子の違い

日本で女子レスリングが本格的にスタートした1980年代後半、栄はソウル五輪出場を遂げ、次のバルセロナ大会を目指す現役選手でありながらも、自ら進んで女子選手の指導に加わった。以来30年近く、栄ほど現場で女子のレスリングを見てきた者は世界にもいないだろう。

練習は男女の区別なく、最も高いレベルでやらせる。だが、指導すること、求めることは、女子ならではのレスリングだ。

女子が行うフリースタイルのルールに男女の違いはない。同じ技を繰り出し、防御する。だが、男子と女子では、骨格や関節、筋肉が違い、どんなに鍛えても同じような体にはならない。それゆえ、体が柔らかい女子では男子以上に極めないと体を制することができない場面もあるが、筋力がないゆえ立ち上がり、相手を持ち上げられない体勢もあり、レスリングの質が異なる。

パワーで勝てない日本男子レスリングが世界と互角以上に戦うために長年磨いてきた技術を身につけてきた栄が、知り尽くした“女子”に合わせて教えているというわけだ。

強い選手を育てる秘訣

取材を重ね、最後に栄本人にズバリ、「なぜ、次々と強い選手を育てられるのか」を聞いてみた。すると、用意していたようにサラッと答えが返ってきた。

「下の選手を先輩に早く勝たせること。1度勝てば、次も、次も勝つように頑張る。逆に、先輩も『なにくそ』となるでしょ。強い選手が育ちますよ」

「でもさ、実権を握っている先輩たちからは、嫌われるんです。監督は『若い子ばかり贔屓(ひいき)して』とね。しかし、それでもいい。上を立てればいいチームになるけど、下を強くすれば強いチームになる。そうやって、途切れることなく中京女子大、至学館大をずっと強くしてきたんです」

2016年リオデジャネイロ五輪、吉田と伊調が日本初、女子初、レスリング初となるオリンピック4連覇の偉業に挑戦し、それに引っ張られるように登坂、川井、土性らも活躍するだろう。世界最高峰の舞台で、栄チルドレンが脚光を浴びる。

だが、栄はすでにその先の2020年東京オリンピックを見据えている。目標は「全階級、至学館勢で占め、金メダル5個獲得」だ。

(取材・文:宮崎俊哉)

<連載「金メダリストの創り方」概要>
4年に1度行われるオリンピックは、スポーツ界で最も過酷な大会の一つだ。国中の期待を背負う重圧は壮絶極まりなく、目の前の相手はもちろん、自分との戦いに勝って初めて金メダルを獲得することができる。選ばれし者の舞台に立つまでにアスリートは自身をいかに鍛え、また各競技団体はどうやって世界一になれる選手を創り上げているのか。隔週金曜日にリポートする。