「過去の成功を捨てても未来への挑戦」を選び続ける、マネックス松本大の“狂気”な半生

2015/9/19
マネックスグループ社長の松本大氏は、開成中学・高等学校から東京大学法学部というエリートの王道を進みながら、当時は珍しかった外資系金融のソロモン・ブラザーズに就職。さらにゴールドマン・サックス証券に転職して、30歳で同社史上最年少パートナーに就任した。
だが上場数カ月前に辞め、マネックス証券を設立する。軽やかに成功を手放しては己の信じる道を行く希代の起業家は、いかにして生まれたのか。
ゴールドマンを辞めて起業の道を選んだ理由
ゴールドマン・サックス証券を辞めて起業に踏み切った理由については、これまで何百回と聞かれ、私自身も幾度となく振り返って自分に問うてきました。
同僚のパートナーからは「insane(狂っている)」とまで言われた決断です。なぜなら、ゴールドマンは1999年5月にIPO(株式公開)をしています。私が辞意を会長のジョン・コーザインに伝えたのは1998年10月下旬。このままパートナーとして席に座っていれば、株式公開後に多額の創業者利得を受け取れることはわかっていました。
その額は50億を超えたはずだったとか、後からいろいろな憶測がマスコミの間でも飛び交いましたが、とにかく、私はこの報酬を受け取る道を自ら断ったのです。
悠々自適の人生を送れることは約束されていた。では、なぜそうではない道を──しかも、誰も通ったことがない舗装すらされていない「オンライン証券の創業」という道なき道を選んだのか──。
兄の分まで生きる
学校生活ではハチャメチャだった私ですが、小学5年生の時、その後の人生観に大きく影響する出来事がありました。兄が突然小児がんになり、半年もしないうちに亡くなったのです。
自分の意志に反して突然人生の幕を閉じた兄のことを考えると、とても自分から人生を投げ出すなんてことは許されず、私は「兄の分まで生きなければならない」と思うようになりました。
二人分の200%生きるというのは不可能だとしても、せめて120%、140%は生きたい。自分の限界を「ここまで」と決めずに突き進もう。できるだけ遠くまで、行けるところまで進もうと。これは今でも変わらない私の信条です──。
英語が話せない挫折感
私は20歳を過ぎるまで海外に行ったことがまったくなく、本州を出たのも20歳の時に徳島に阿波踊りを見に行ったのが初めてという超ドメスティックな人間でした。
安さ重視で選んで泊まったのは、タフツ大学の寮。そこで痛いほど思い知らされたのが、彼らとのコミュニケーション能力のギャップです。相手の言っている言葉も理解できないし、何より自分の考えがまったく伝わらない。
覚えているのは、あるイタリア人の小柄な女の子がいたのですが、彼女となんとか会話を成立させようと悪戦苦闘していると、ポールという鼻の高いフランス人にあしらわれて会話から排除されバカにされる。悔しい。でも、なんともできない。
数日後、他の学生に見つからないように期間途中で早朝に寮を逃げ出しました。帰国してからもショックでしばらくふさぎ込みました。
思えばこの時の挫折感が、もうそういう思いはしたくないというかたちで、私の逃げずに前向きに取り組んで乗り越えていこうという行動パターンの基礎になっているかもしれません──。
ソニー出井さんへのプレゼン、もう1社の出資話
「いま、ソニーの出井(伸之)さんと飲んでいるんだけど、来る?」
「行きます!」
手ぶらですっ飛んで行きました。店に着くまで「ついに話ができる」と胸が高鳴りました。オンライン証券会社を立ち上げるにあたって、まず話をしたいと考えていた会社がソニーでした。
ゴールドマンでパートナーをやっていたという実績は金融の世界では通用しますが、一般の人からすると「?」マークしか浮かばないでしょう。だから、“信頼”を集めるためのパートナーが必要でした。
大物を前に、私はちょっと緊張しました。簡単に自己紹介を済ませると、できるだけ淡々とビジネスコンセプトについて説明するように努めました。
この日から約4カ月後には、ソニーが半分出資するかたちでマネックス証券が創業するわけですが、そこに至るまでの経緯はまさにドラマの連続でした。
今回初めて話すことですが、実は、出資の話を進めていた会社がもう1社ありました──。
人間の能力に大差はない。差をつけるのは、好奇心
好奇心はビジネスで勝つための原動力です。今の状況や環境変化に対して敏感でなければ、あっという間に置いていかれる。
ビジネスには常に競争相手があって、ビジネスに対する好奇心のレベルが相手と比べて、あるいは過去の自分と比べて少しでも下がってしまうと確実に負けると私は常に危機感を抱いています。
人間がもとから持っている能力には大して差はない。差をつけるのは、好奇心とモチベーション。昨日より今日、去年より今年と、実力がハイスピードで上乗せされていくような、成長の変化が著しい「回転の速さ」を見せる人とそうでない人を分けるもの。それが好奇心というドライブだとずっと思っています──。
「システム」ダウン。2つに1つのロシアンルーレット
マネックス証券が乗り越えてきた壁はいろいろありますが、インターネットでサービスを提供する会社の生命線ともいえる「システム」がダウンするというアクシデントは、寿命が縮むような出来事でした。
正しい方を選んで復旧作業をしないとシステムは直らないということでした。最後の選択が正しければシステムは復旧する。間違っていれば……。
論理的にはどちらが正しいかはわからない。2つに1つ。最後の選択で、会社の命運がわかれることを知らされました。
「松本さん、選んでください」
ロシアンルーレットの銃を渡されたのは私でした。なんてことを言うんだ、と一瞬ひるみましたが、確かに私がやるしかないだろうと腹をくくりました。
2つに1つ。覚悟を決めて選んだ私の選択は──。
日本企業と合併。「異」と交わってアレルギー反応
2003年の秋、日興ビーンズ証券が上場準備をしているといううわさが耳に入ってきました。
創業して5年。あうんの呼吸の創業メンバーと私の理念に賛同して集まってくれたメンバーとともに、これ以上ない居心地のいい環境で仕事ができていました。
しかし、平たんな道では人間は堕落するというのが私の信条です。必死に足を踏み出さねば転がり落ちるような坂道を自ら選んでいこうと、常々考えてきました。
同質性の高い環境は脆弱(ぜいじゃく)であることは生物の歴史も教えてくれます。そろそろ思い切って、異(い)なる血を入れなければいけないという思いを密かに持っていました。
交渉から2カ月で話はまとまり、「マネックス・ビーンズ証券」は誕生しました。
しかしながら、初めはカルチャーの違いで大変でした。自分の意志で「異と交わろう」と決めたものの、小学生のころから「日本社会の常識は合わない」と悟っていたような人間です。
日本企業特有の意思決定の仕方や価値観とのすり合わせに思った以上にストレスを感じてしまい、合併1カ月後にはじんましんが出てくる始末。全身にアレルギー反応が出ました──。
やろうと思えば何でもできる
私が経営者として誇らしいと思うのは、国際的なM&Aの案件を担当していたのが皆若いメンバーだということです。新卒採用含めて入社数年の若い社員が、堂々と話を進めて、話をまとめていきました。
ゴールドマン時代に無名の若手チームで実績をつくったときと同じような喜びを感じています。
やろうと思えば何でもできる。できないことは何一つないのです。マネックスグループは、そのやりたいこと、すべきこと、ビジョンのまだ2割くらいしか達成できていないと考えています。
座右の銘は何かと聞かれると、特に思い浮かぶものはありませんが、気に入っている言葉を一つ紹介したいと思います──。
(構成:上田真緒、撮影:遠藤素子)
過去の成功を捨てて未来へ挑戦せよ
松本大(マネックスグループ 社長)
  1. 「過去の成功を捨てても未来への挑戦」を選び続ける、マネックス松本大の“狂気”な半生
  2. 「先生が言っていることはおかしい」小学2年生で退学になる
  3. 兄の死…二人分生きる決意。「自分の限界を決めずに行けるところまで進もう」
  4. 「英語が話せるようになりたくて」外資系企業に就職
  5. 「金融人」にとって大切な姿勢をJMに学ぶ
  6. 誰からも頼まれていない「松本レポート」を毎日書く
  7. 上司の不誠実な態度に失望。ソロモンを辞めてゴールドマンに転職
  8. 30歳、ゴールドマン史上最年少パートナーに就任
  9. 暗中模索で切り拓いた「プロジェクトビッグバン」が莫大な利益を上げる
  10. 「狂っている」と同僚に言われた上場前の退職。なぜ起業の道を選んだか
  11. 「個人が直接株式を売り買いする時代が来る」今すぐ取りかからなければ
  12. ソニー出井伸之さんに宴席でオンライン証券会社のコンセプトをプレゼン
  13. 「マネックス証券」創業。ソニーの他にもう1社あった出資話
  14. 『ニュースステーション』と『日経新聞』のスクープ合戦。主語は「ソニー」か「松本」か
  15. 「マネックス証券」初めての記者会見で狙った演出と“出井効果”
  16. オンライン証券会社の生命線「システム」がダウン、潰れることも覚悟した
  17. 創業1年で上場。実験的な事業にも積極的にチャレンジ
  18. 「異」と交わるために合併。「マネックス・ビーンズ証券」誕生
  19. やろうと思えば何でもできる。できないことは一つもない