みなさんの常識は世界の非常識

みなさんの常識は、世界の非常識Vol.23

原発と原爆の奇妙な関係

2015/8/18

戦後70年が経ちました。世界で初めての原子力爆弾が広島と長崎で使われてから70年が経ったということでもあります。

その後も、1954年3月1日、アメリカの水爆実験に巻き込まれて被曝した、第五福竜丸の事件がありました。

そして2011年3月11日に発生した大地震による東日本大震災での、東京電力福島第一原発の事故と大規模な放射性物質による汚染は、4年経った今でさえも、解決のメドすらたっていません。

一方、戦後70年と歩調をあわせるかのように、鹿児島県の九州電力川内原発が再稼働され、9月には営業運転が始まる予定とされています。原子力規制委員会が定めた新規制基準のもとでは、初めてのケースとなります。

宮台さん、この、原爆と原発の奇妙な一致は、単なる偶然なのでしょうか?それとも、この二者には何か共通性があるのでしょうか?

3回の被曝国がなぜ原発建設へ

1945年8月の敗戦間際に、日本は2つの原爆によって年内だけで21万人以上の民間人が殺されました。アメリカによって殺されたのです。その後、1954年3月にはアメリカによるビキニ環礁での水爆実験で第五福竜丸が被曝をして、世界的な大事件になりました。

ちなみに、民間人の死者数で覚えておいていただきたいのは、東京大空襲で約10万人の民間人がアメリカによって殺されたことと、沖縄の地上戦でも10万人近くもの沖縄民間人がアメリカによって殺されたこと。民間人の死者を数えることはとても重要です。

日本は、福島第一原発の事故以前にアメリカの核兵器で3回も被曝した被曝大国です。「にもかかわらず」と言うか「だからこそ」、日本は原子力平和利用=原発推進の方向にアクセルを踏み、その結果として福島第一原発事故で4回目の大規模被曝を経験しました。

原爆でも原発でも被曝をしたのは日本だけ。なぜなのか。毎年2つの原爆記念日を迎える8月。本日はそれを話します。3点あります。(1)アメリカはどんな工作をしたか。(2)日本の反対勢力はどう展開したか。(3)日本の推進勢力がアメリカにどう呼応したか。

ちなみに安倍政権は原発再稼働に向けアクセル全開。先日は川内原発が再稼働しました。同時に原発輸出も加速しようとしていて、不正会計で傾いた東芝も経営上は「お荷物」の原発をやめない。なぜだろうと疑問に思う人も多いはず。その疑問にも答えましょう。

原爆と原発との密接な結びつき

「潜在的な核抑止力」という言葉をご存じですか?「いざとなったらすぐ原爆を作れる体制にあることそのものが核抑止力になる」という理屈です。これは石破茂さんが福島の原発事故が起こった年に堂々表明した持論で、古くは外務省が内部文書に記録しています。

この話は後で振り返りますが、「潜在的な核抑止力」という言葉からだけでも、原発の問題は原水爆の問題と密接に結びついている事実が分かります。さらに原発と原水爆との関係は、核兵器保持国以外の原発利用を査察するIAEAの存在にも密接に関わっています。

1953年12月8日。この12月8日はもちろん真珠湾攻撃の日ですが、この同じ日に敢えて行なわれた国連総会でのアイゼンハワー大統領の演説を御存じですか。Atoms for peace (※)つまり「平和のための原子力」という内容の有名な演説なので、覚えておきましょう。

※アイゼンハワー大統領のスピーチは原文で読むことが可能。さらにサイトの右上部には動画へのリンクも。

一口で言えば「アメリカは、原子力の技術を独占するのをやめ、各国に平和利用してもらう」との内容。敗戦必至の日本に原爆を2発も投下した非人道性に対する批判の高まりに、冷戦体制深刻化を背景に対応したものであることが証言や文書から分かっています。

但し平和利用を口実とした核兵器の製造を塞ぐために、国際原子力機関=IAEAを作るぞ、ということも宣言しています。Atoms for peace演説がIAEAのルーツだということです。ところが演説直後の54年3月、ビキニ環礁水爆実験で第五福竜丸が被曝してしまう。

この大事件で国際世論がおおいに盛り上がります。日本でも大々的に報じられて反核世論が圧倒的となります。反米ムードも高まりました。ところが当時は1949年の中華人民共和国成立、51年の朝鮮戦争勃発と、深刻化した冷戦が熱戦になりかかっていた時代。

それゆえに、アメリカは、第五福竜丸事件による反核・反米世論の盛り上がりを共産主義勢力によって利用されるのではないか、共産主義勢力が伸長するのではないか、と、激しく恐れました。これも当時の内部文書によって既に明らかにされているところです。

そこで危惧に対処すべく、第五福竜丸の被曝からわずか一カ月後の1954年4月にワシントンは、日本に原発を建設させることを前提として、原子力平和利用に関する博覧会を開く計画を立案。55年11月から2年弱、全国11都市で原子力平和利用博覧会が開催されます。

被爆地の広島でも開かれて11万人が来場しましたが、全国では260万人にも及びました。アメリカの原子力委員会は報告書にこう記しています。「日本人の原子力エネルギーへの態度をめざましく変えた。大統領の平和利用構想にこれほど好意的な国が他にあろうか」。

日本の反核・反米世論を押さえ込むための、原発建設を見据えた原子力平和利用博覧会は、大成功に終わりました。そして、博覧会の終了直後にあたる1957年8月に、日本で最初の原子力発電所にあたるアメリカ製の実験炉が東海村で稼働した、というわけです。

原子力の夢に満ちた子ども時代

ちなみに1956年から順次28巻刊行された小学館学習図鑑シリーズがあります。そのうち56年11月に配本された「⑨交通の図鑑」が手元にあります。原子力平和利用博覧会の開催期間中のど真ん中に出された図鑑を見ると、当時の雰囲気が手にとるように分かります。

図鑑を開くと、最初の見開きが「未来の交通Ⅰ」で飛行場の場面。離陸中の「原子力大型旅客機」が大きく描かれています。その背後には駐機中の「原子力小型旅客機」が見えます。どちらも『サンダーバード』のファイヤーフラッシュ号を髣髴させるデザインです。

次の見開きが「未来の交通Ⅱ」で港湾施設と近くを走る高速道路の場面。超大型の「原子力渡洋船」と、中型の「高速原子力旅客船」と、ホバークラフトの「原子力飛行艇」と、浮上中の「原子力潜水艦」が描かれ、上空で「原子力飛行機」が着陸態勢に入っています。

さらに次の見開きが「宇宙旅行」で土星を背景にした場面。「太陽光線を利用して飛ぶイオンロケット」には「原子力燃料(セシウム)」と記され、さらに背後に「原子力で飛ぶ原子力ロケット」が2機描かれています。つまり冒頭の数頁は原子力ビークルだらけです。

僕は幼稚園に入った1963年に学習図鑑シリーズを全巻買い与えられました。最も印象に残っているのが、原子力の夢に満ちた「⑨交通の図鑑」。小学校にあがった僕は原子力マニアになり、卒業文集に「将来はスペースコロニーで原子力を研究する」と書きました。

思えば、これぞまさに、原子力平和利用博覧会が狙っていた波及効果でした。1959年に生まれた僕は、1960年代を通じて「⑨交通の図鑑」のような原子力の夢オンパレードの情報に囲まれて育ち、原子力研究者になろうと決め、ディープなSFマニアになりました。

反対勢力の内部抗争による分裂

ここまで、冷戦体制の深刻化を背景とした、アメリカの核兵器による3回の被曝がもたらした反核・反米世論に関する対日世論工作としての、原発建設を見据えた原子力平和利用博覧会の開催と現実の原発稼働までの歴史をお話ししました。完全に暗記しましょう。

続いては、反対勢力のお話です。復習いたしますと、1954年3月にビキニ環礁での第五福竜丸の被曝事件があり、その翌月からアメリカが原発建設を前提とした原子力平和利用博覧会の開催に向けたアクセルを全開にしたことを、説明したところでしたよね。

1955年11月からの原子力平和利用博覧会開催に向けた準備が進む中、反対勢力は同年8月に「原水爆禁止世界大会」を開きます。大会に向けて集まった署名が何と3000万人超。翌9月には署名活動の実行委員会が母体となり、全国組織の日本原水協が結成されます。

アメリカが恐れたのはこの種の動きで、それを予想して対抗するべく翌々月から全国11都市での原子力平和利用博覧会を予定したのです。11都市以外にも小さな町で小規模な展覧会が多数開かれました。これらに刺激を受けて原子力工学を志した人が多数います。

そんな中、反対勢力が分裂する。問題は社会主義勢力の核実験、具体的にはソ連の核実験を容認するか反対するか。共産党系主流派は「共産主義者は核を持っていい」「ソ連の核実験はアメリカによる世界支配・侵略に対する防止のためのものだ」と主張しました。

振り返ればあまりに愚昧な主張ですが、これがきっかけで組織が瓦解してしまいます。長い内部抗争の結果、63年には日本原水協が、主流派だった共産党系の原水協と、非主流派だんた社会党系の原水禁に分裂したのです。これで反対勢力は一気に弱体化しました。

僕の価値観を話します。元赤軍派議長の塩見孝也さんが20年の刑期を満了して出獄した後、二人でトークイベントをしました。20年以上前のことです。あなたの部下たちが大勢の人殺しをしたが、そのことに関する思想的な誤りをどう総括するか、と尋ねました。

塩見さんは「当時信じた共産主義思想は非人間的だった。今は人間的な共産主義思想の持ち主だ。正しい思想だから間違いは繰り返さない」と答えました。僕は思わず激昂して「正しい思想だから間違えないなんて考えるから、また人を殺すんだ!」と怒鳴りました。

雨降って地固まる。中森明夫さんとの出会いも園子温さんとの出会いも喧嘩でしたが、その後とても仲良くなりました。塩見さんとも仲良くなりました。深夜に電話を掛けてくるようになって、一年過ぎると「共産主義を捨てて縄文主義者になった」と仰いました。

ことほどさように、「正しい思想だから間違えない」などという発想は僕にとってはあり得ません。だからそうした発言を聞いた0.1秒後には激昂していました。「共産主義勢力は核兵器を持って良い」は、「正しい思想だから間違えない」という愚昧の典型例です。

国内推進勢力はアメリカと呼応

最後は日本側推進勢力の話です。第一に、中曽根康弘などの政治的な勢力は冒頭に話した「原爆のための原発」。第二に、原子力平和利用博覧会の影響を受けた科学者たちは「贖罪のための原子力平和利用」。第三に、パンピーは「国力回復の象徴としての原発」。

ざっとした理念型の整理です。第二や第三に類型化される政治家もいたし、第一や第三に類型化される科学者もいたし、第一や第二に類型化されるパンピーもいました。しかし細かいことはどうでもいい。この三つの類型が存在したことだけを覚えておきましょう。

「原爆のための原発」(語呂合わせのために原水爆を原爆に置き換えています)の図式は、核不拡散条約(NPT)調印直前の1969年、外務省内部文書に「核兵器製造のポテンシャル(潜在能力)は常に保持する」という形で、行政文書として初めて登場します。
 
外務官僚が核戦略を思い付きで記すことはありません。政権中枢にそうした思考が長期に安定して存在したことを示します。それを証するかのごとく福島第一原発事故直後に自民党の石破茂が「原発維持が核の潜在的抑止力になる」とテレビと雑誌で表明しています。

54年3月に第五福竜丸が被曝しましたが、その直後に中曽根康弘が国会に初めて原子力予算案を上程。翌4月に235億円(当時)に及ぶ膨大な利権「原子炉築造の基礎研究費及び調査費」がもたらされます。彼と連携したのが、原子力委員会の初代委員長・正力松太郎。

再確認すると、第五福竜丸被曝が54年3月で、翌4月にアメリカが国家安全保障会議で日本での原子力平和利用博覧会の開催を決めます。博覧会は55年11月から57年8月まで。55年12月に成立した原子力基本法に基づき、56年1月に設置されたのが原子力委員会です。

原子力委員会の初代委員長が読売新聞社主・正力松太郎で、読売は原子力平和利用博覧会の主催者にも名を連ねます。53年のAtoms for peace演説から博覧会終了&国内初原子炉稼働の57年8月までの動きだけでも、アメリカと国内推進勢力の連携ぶりが瞭然です。

この連携が国内の有力反対者を取り除く過程を原子力委員会に見出せます。ノーベル賞を受賞した物理学者の湯川秀樹や同じく物理学者の藤岡由夫は当初原子力委員会の委員でしたが、正力委員長が原発早期建設を既定路線としたことに抗議して湯川が脱会しました。

識者や学識経験者を据えた原子力関連の委員会が、政治的に確定済みである既定路線の「提灯持ち」としての機能しか与えられない、という今日まで続く反民主主義的なデタラメぶりが、1956年に成立した原子力委員会から当たり前のように横行していたわけです。

原発問題を単なるエネルギー問題だと捉えるバカが今でもいるので、今回は「アメリカの工作」「反対勢力の分裂」「アメリカに連動する推進勢力」という三要因の絡み合いの中で「原爆のための原発」図式が維持されてきたことを歴史を振り返って確認しました。

今回、広島長崎70年と九州電力川内原発の再稼働が重なったのは、偶然でしょう。しかし「原爆を二度も被爆したからこそ、アメリカの介入もあって、原発推進を今でもやめられない」というオソマツな構図が、原爆記念日と原発再稼働の重なりの背後にあります。

(構成:東郷正永)

<連載「みなさんの常識は、世界の非常識」概要>
社会学者の宮台真司氏がその週に起きたニュースの中から社会学的視点でその背景をわかりやすく解説します。本連載は、TBSラジオ「デイ・キャッチ」とのコラボ企画です。

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