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名門UCLAの流儀(第3回)

UCLAスポーツの父。78歳のルームメイトから学んだ人生哲学

2015/8/4

カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のアスリートたちのために生涯を捧げた人物がいる。

陸上コーチとして多くの金メダリストを育て、のちにアメリカン・フットボールとバスケットボールのトレーナーに転身したダッキー・ドレイクだ。

幸運にも、横山匡はUCLAバスケットボール部のヘッドマネージャー時代、遠征先と試合前夜のホテルでダッキーと同部屋だった。

78歳のルームメイトがこぼす言葉に、日本から来た留学生は時に救われ、時に感銘を受け、人生を歩むうえで大きな影響を受けた。

時計の針を30年巻き戻し、横山がダッキーの魅力を語る。

【ダッキー名言集】
・「否定できない運命を大切にしなさい」
・「恵まれている者には成功する義務がある」
・「積み重なってたどり着いた今日が一番幸せ」
・「大切でない人に怒るよりも、愛する人にエネルギーを使おう」
ダッキー・ドレイク(Ducky Drake、写真中列右端) 1903年11月2日アメリカ合衆国生まれ。1927年UCLA卒。中学校の数学の教師を短期間務め、1929年に陸上のアシスタントコーチになった。1947年にコーチに昇格。最も有名な教え子はレイファー・ジョンソン(1960年ローマ五輪・十種競技金メダル)。功績を称えられ、1973年にUCLAの陸上競技場にその名がつけられた。 1964年東京五輪後に陸上に区切りをつけ、バスケットボールとアメリカン・フットボールのトレーナーに転身。1986年まで現場に立ち続けた。1988年12月23日没(写真:横山匡提供)

ダッキー・ドレイク(Ducky Drake、写真中列右端)
1903年11月2日、アメリカ合衆国生まれ。1927年UCLA卒。中学校の数学の教師を短期間務め、1929年に陸上のアシスタントコーチになった。1947年にコーチに昇格。最も有名な教え子はレイファー・ジョンソン(1960年ローマ五輪・十種競技金メダル)。功績を称えられ、1973年にUCLAの陸上競技場にその名がつけられた。1964年東京五輪後に陸上に区切りをつけ、バスケットボールとアメリカン・フットボールのトレーナーに転身。1986年まで現場に立ち続けた。1988年12月23日没(写真:横山匡提供、写真中列左端が横山氏)

陸上競技場に名前がついた男

岡部前回は名将ジョン・ウッデンの話を聞きましたが、UCLAでは、ほかにもたくさんの出会いがあったそうですね。

横山:ウッデンと同じくらい影響を受けたのは、UCLAの伝説のトレーナー、ダッキー・ドレイクです。

ダッキーは1988年に85歳で亡くなってしまいましたが、UCLAの陸上競技場に名前がついているくらいのレジェンドで、陸上競技のコーチとして何人もの金メダリストを育ててきました。

彼がさらにすごいのは、1964年東京五輪後の61歳のとき、陸上のコーチをすぱっと辞めて、その後はずっとバスケットボールとアメリカン・フットボールのトレーナーとして生涯UCLA一筋でプレーヤーを支えてきたことです。

僕がUCLAバスケットボール部で出会ったとき彼は76歳。ヘッドマネージャーとして一緒に遠征をしたときには78歳でした。

横山匡(よこやま・ただし) 1958年、東京都生まれ。オートバイデザイナーだった父の仕事の関係で、中学2年時にイタリアへ。16歳のときにアメリカ・ロサンゼルスへ移り、現地の高校を経てUCLAに進学することになる。大学1年時のバスケットボールブームに魅了され、2年時にバスケット部のマネージャーに合格。卒業後は日本に帰国して留学指導・語学教育に携わり、のちにアゴス・ジャパンを設立。世界の名門大学、大学院を始め海外への留学指導とサポートを通じ世界を舞台に活躍したい人材の応援を行う。NewsPicksの佐々木紀彦編集長も、スタンフォード大学大学院への留学前にアゴス・ジャパンで学んだ(写真:福田俊介)

横山匡(よこやま・ただし)
1958年東京都生まれ。オートバイデザイナーだった父の仕事の関係で、中学2年時にイタリアへ。16歳のときにアメリカ・ロサンゼルスへ移り、現地の高校を経てUCLAに進学することになる。大学1年時のバスケットボールブームに魅了され、2年時にバスケット部のマネージャーに合格。卒業後は日本に帰国して留学指導・語学教育に携わり、のちにアゴス・ジャパンを設立。世界の名門大学、大学院を始め海外への留学指導とサポートを通じ世界を舞台に活躍したい人材の応援を行う。NewsPicksの佐々木紀彦編集長も、スタンフォード大学大学院への留学前にアゴス・ジャパンで学んだ(写真:福田俊介)

なぜ大きな影響を受けたかというと、ホームゲームの前日、ヘッドマネージャーは選手とともにホテルに泊まるんですね。その際、いつも私はダッキーと同部屋だったんですよ。

ダッキーからかけられた言葉

岡部:78歳のルームメイトとはすごい(笑)。

横山:そうすると部屋にいるときに、深い言葉がポロッ、ポロッとこぼれてくるわけです。今でもたくさんの言葉が胸の中に残っています。

そもそも私がUCLAを卒業して日本に帰ったのは、ダッキーからの言葉も関係しています。

1983年に卒業を控えた僕には、1984年のロサンゼルス五輪という夢の舞台が手の届くところにあり、卒業後の進路で迷っていた。そんなシーズン中のあるとき、ホテルの部屋でダッキーから言われたのは、「否定できない運命を大切にしなさい」ということ。「そうしたら、そこそこ幸せになれるから」って。

そこで自分なりに「否定できない部分」を掘り下げてみました。両親の子どもとして日本で生まれ、下町で育ち、中2のときに家族でイタリアに渡ったけれど、日本人として生きることを選べるとしたら今が最後だなって思ったんです。

周囲は大反対しましたが、「それだけ」が主な理由で日本に帰国することにしました。

UCLAのスポーツ殿堂博物館の展示。左がダッキー・ドレイク(写真:横山匡)

UCLAのスポーツ殿堂博物館の展示。左がダッキー・ドレイク(写真:横山匡)

恵まれた人の義務

もうひとつダッキーから言われて印象に残っているのは、「恵まれた人には成功する義務がある」という言葉。

「お前、恵まれていると思うか?」って聞かれて、「UCLAに入学でき、さらにマネージャーになれて、すごく恵まれていると思う」と答えました。すると「じゃあ、お前は成功する義務がある」と。

「できないことがあるのはしょうがない。けれど、恵まれていると感じるのなら、できることをちゃんとやる義務がある」

今でも心がけている言葉です。

人生で一番幸せな日は?

そしてある日、「ダッキーにとって一番幸せだった日はいつなの?」って聞いたことがあります。

ダッキーは声がしゃがれているんですよ。ガラガラ声で彼は答えました。

「いやあ、思い出深い日はいっぱいあるけどな、それが全部積み重なってたどり着いた今日が、一番幸せなんだ」

20代前半のときにそんなことを耳にしたら、電気が走るんですよ。そこまでまだ悟りきれませんが、目指して、思い出すことの多い言葉です。

功績が称えられ、UCLAの陸上競技場にドレイクの名前がつけられた(写真:横山匡)

功績が称えられ、UCLAの陸上競技場にドレイクの名前がつけられた(写真:横山匡)

なぜ人は怒るのか

遠征で大失敗をして落ち込んでいるときにも、声をかけてもらったことがあります。

ヘッドマネージャーは遠征の試合では、有力OBのチケットを手配しなければなりません。

そのOBは高額の寄付をしているので、いつもはベンチのすぐ後ろの席を用意するんですね。でも私はノートルダム戦でしくじり、7列目くらいの席になってしまった。

そうしたら、「あの日本人のマネージャーはどうなっているんだ。長年にわたる俺の貢献に対してリスペクトがない!」とどやしつけられて。

で、ホテルに帰ってふてくされていたんです。そうしたら、ダッキーがボソッと「何怒ってるんだ?」って。そして、こう続けました。

「そうか、それは残念だったね。時には、そういうこともあるだろう。ところでさ、お前が怒りをぶつけているその人はお前にとってそれだけのエネルギーを使うほど大切な人なのか? そうでないのであれば、そのエネルギーは愛している人たちに使いなさい」

ダッキーの言葉を聞いて、すっと怒りが消えていきました。嫌いな人にエネルギーを使うのではなく、好きな人たちにエネルギーを使おう、と。そんなこともあって今は「好きな人」と「大好きな人」と「あまり気にしない人」しかいないようになりました。

私にとってダッキーと一緒にいる時間は、物事の捉え方を教えてもらえる最高の授業でした。

今自分も、少しでも覚えてもらえるような言葉を使いたいなと思って、若者たちに接しています。

シーズン前の伝統の儀式

岡部:UCLAバスケット部のマネージャーを務めていたときに、一番印象深かったシーンは何ですか。

横山:シーズン前にちょっとした儀式があるんですね。13人くらいの選手がロッカールームで輪になって、マネージャーも入って、無言で2分くらいお互いを見つめ合います。

最初はみんなニコニコしているんですが、だんだんしんみりしてくる。

そしてコーチが口を開き、大学スポーツの尊さと儚さを語り始めるんです。

「来年、誰かが抜けてここを去り、誰かが入ってくる。このメンバーで戦う最初で最後の1年になる。そのシーズンを人生で最高の1年にしよう!」

そのシーンが一番記憶に残っていますね。

学校の同級生も、会社の同僚も、ほぼ偶然、出会う。人生の出会いのほとんどが偶然です。偶然を人生の宝にしていくことを教わりました。

日本の教育に欠けている質問力

岡部:最後に改めて聞きたいんですが、日本から優秀な人材がMBAに行ってもクラスで手を挙げる人が少なく、一番早く手を挙げるとなるとほとんどいないと思います。なぜ横山さんはUCLAバスケットボール部の説明会で、最初に手を挙げたんでしょうか。

横山:それに関して思い当たるのは、アメリカの高校で習ったことです。高校では、次の3つの質問をずっと投げかけられていました。

1. What do you want do? (何をしたいのか)

2. What do you think? (どう思うのか)

3. Why? (なぜか)

「教育」という日本語からは、「教え、育てる」と先生が主役のような印象を受けますが、もともと、「education」の「educe」は、持っている能力を「中から引き出す」という意味なんですよ。

答え(The Answer)を教えるのが日本の教育だとしたら、それぞれの答え(Your Answer)を見つけられるように導くのが「education」です。

そして自分だけの答えは、自分だけの問い(Your Question)から始まる。だから、普段から自分に対する質問をちゃんと持たなくちゃいけない。

その習慣を高校時代に身につけさせてもらったから、即決できたんだと思います。

日本は答えを覚える基礎力はすごく高いんですが、自分だけの答えを見つけることに慣れていない。苦手というよりは「慣れていない」だけなんですよね。

岡部:クエスチョンがいつも与えられているからですね。

横山: そう。日本の教育でも、質問力を育むことがすごく大事です。

ケンブリッジでもMITでもハーバードでも、普段から「自分だけの質問」を考えているから、ディスカッションに参加できると思うんですよ。

グローバル人材に関しての講演を頻繁に依頼されるんですが、グローバル人材という人種がいるわけではありません。あくまで「あなたという人材のグローバル化」でしかないと思っています。グローバルは飾り言葉で本質の名詞は「人材」ですから。

ですから、グローバル人材とは、どんな場面でも、誰とでも、どんな環境でも自分らしく振る舞える人たちのことだと思います。

だから、私の仕事は、高校生であれ、就活している大学生であれ、MBAを目指している留学生であれ、アスリートであれ、自分では気がつかない能力や可能性に気づいてもらうことだと思うんですね。「中から導く」きっかけをつくれる「Educator」でいたい、と。

そう言う人たちに、私はUCLAで出会った。今の仕事を通して、多くの人たちに、気づくきっかけを与えていければと思います。

最後にジョン・ウッデンの言葉で締めくくらせてください。ウッデンはこう言います。

「この世の中で一番大切な仕事は子育て(次世代支援)である」

(The Most Important Profession in the world is parenting)

先輩、社会から受けた恩恵は、直接「Pay Back(返す)」する以上に、次世代に「Pay Forward(贈る、つなげる)」することが大切なのです。

<横山匡氏からのメッセージ>
岡部さんとの縁や木崎さんとの出会いでいただいたこのインタビューの機会を通じ、自分のことをちゃんと整理して語らなければならないという成長の場をもらいました。ありがとうございました。

そして、さまざまな出会いに恵まれたキャリアと人生で得た、意識の持ち方や指針となった言葉などをまた共有させていただく機会があればと願っています。留学を目指す方々に限らず、NewsPicksで興味を持っていただいた方々と交流する場が将来あることを願っています。

岡部恭英(おかべ・やすひで、写真右)  1972 年生まれ。 CLに関わる初めてのアジア人。UEFAマーケティング代理店、「TEAM マーケティング」のTV放映権&スポンサーシップ営業 アジア&中東・北アフリカ地区統括責任者。ケンブリッジ大学MBA。慶應義塾大学体育会ソッカー部出身。夢は「日本が2度目のW杯を開催して初優勝すること」。本連載のモデレーターを務める(写真:福田俊介)

岡部恭英(おかべ・やすひで、写真右)
1972年生まれ。CLに関わる初めてのアジア人。UEFAマーケティング代理店、「TEAM マーケティング」のTV放映権&スポンサーシップ営業 アジア&中東・北アフリカ地区統括責任者。ケンブリッジ大学MBA。慶應義塾大学体育会ソッカー部出身。夢は「日本が2度目のW杯を開催して初優勝すること」。本連載のモデレーターを務める(写真:福田俊介)

(構成:木崎伸也)