【野球留学校の実態・前編】「野球留学=ほぼ逃げ道がない」

2015/7/28
1956年に創立された光星学院高校(現・八戸学院光星)は野球弱小県と言われた青森で、長らく無名の私学だった。それを180度変えたのが、1995年に監督就任した金沢成奉だ。  
金沢監督は全国から生徒を集め、寮生活の下で鍛え上げていく。1997年に初めての甲子園出場を果たすと、総監督として2011年夏から史上初めてとなる3季連続の準優勝を飾った。坂本勇人(巨人)や田村龍弘(ロッテ)、北條史也(阪神)らをプロに送り込むなど、光星学院は今や全国に名をとどろかせる強豪となっている。
公立高校や地元出身の球児たちで甲子園に挑む高校が賛辞を集める一方、八戸学院光星のような「野球留学」はバッシングを受けることも少なくない。全国から選手を集める方法は、「教育の一環」である高校野球の理念にふさわしくないというのだ。
だが、15歳にして親元を離れる決断を下した高校生たちと、合宿所暮らしの彼らを預かる監督の覚悟を想像したことがあるだろうか。
2012年夏限りで八戸学院光星を去った金沢監督は現在、茨城の私学・明秀学園日立を率いている。甲子園出場歴のない同校だが、「野球留学生」を集めて力をつけ、2015年には春の県大会で準優勝、夏の同大会では準決勝進出を果たした。
世間になかなか理解されない男が、覚悟の胸の内を明かす。
金沢成奉(かなざわ・せいほう)
1966年生まれ。大阪で高校時代を過ごし、東北福祉大学に進学。1995年光星学院の監督に就任。春夏通算8度の甲子園出場に導き、2011年夏から3季連続の準優勝を果たした(2010年3月以降は総監督として指導)。2012年、明秀学園日立の監督に就任。今年の夏は茨城大会で準決勝進出に導いている。打撃理論に定評があり、教え子に坂本勇人(巨人)、田村龍弘(ロッテ)、北條史也(阪神)など。(撮影:中島大輔)
野球留学の目的はボーダレスな人格形成
──先に個人的な意見を伝えると、野球留学には賛成です。大学生や社会人になったら地方や海外に出ていくのは当たり前ですし、むしろ賞賛される場合も多い。そうしたことを高校生が行っているのは、単純にすごいと思うからです。15歳にして親元を離れる決断を下した球児たちの覚悟について、金沢監督はどう考えていますか。
金沢 青森のときから県外の子をたくさん集めてやってきましたから、もちろん僕は肯定派です。確かに理想論でいけば、地元の子たちを集めて地域発展のために育てていくことでしょう。だから僕は、「自分が正しい」とは言いません。
非を唱える人たちがいても、それはそれで受け入れればいい。子どもたちには、「君たちは親元を離れて、ここに来て厳しい寮生活をしている。それだけでも、大きな価値がある」と話しています。
──他人の評価を気にするより、自分が行っていることに誇りを持とうということですか。
そうですね。現在のようなボーダレスの時代の中で、「地元だ、県外だ」という枠について言っている場合ではないと思います。ボーダレスな時代に必要とされるのは、ボーダレスな人格形成。多様なものに耐える力、と言いますかね。
僕は大阪の高校を卒業して仙台の東北福祉大学に進んだとき、そう感じました。29歳のときに半年間キューバに野球留学した際にも、世界を見てそう強く感じたんです。
高校生の頃に野球留学をすることで、自己を確立していけるという信念を持ってやっています。心の芯がしっかりした人間さえつくれば、21世紀に見合うような人間育成もできるのかなと思いますね。
関西+関東+東北=ベストミックス
──部員たちにとって、寮で一緒に暮らす利点はどこにありますか。
光星学院のある八戸は、東北の中でも閉鎖的な地域と言われるところでした。そこに南は九州や沖縄から、北は北海道まで人を集めてきましたから、3つくらいの層ができ上がるんです。
関西の子たちが多かったので、ひとつはその層。言い方は悪いけれど、関西人特有のハッタリが得意な子たちですね。口から先に生まれてきたようなヤツらを、関東の人間は「われわれの層があるので、お前らとは違うんだよ」とうまくあしらいます。でも、東北人は関西人に圧倒される。そういう3つの層が生まれるんですね、やっぱり。
野球留学に否定的な人たちは、それぞれの層のままで終わってしまうことを懸念しているのだと思います。
でも同じ屋根の下で同じ釜の飯食って、日々生活して野球の厳しいことをやっていくと、東北人が関西人のハッタリを見抜けるようになってくる。バカにしていた関西人が、地道にコツコツやる東北人の良さを知ることになる。その両方を見つめていた関東人が、さらにその輪に入ってくる。
半年から1年かかるんですけれど、まさにベストミックスな状態が生まれる、というのが僕の持論です。
15歳で親元を離れる覚悟
──子どもたちは基本的に、甲子園に行きたいから地方まで来るんですか。
動機はもちろんそうです。たとえば光星の場合、主なライバルは青森山田(高校)くらい。よその地域では、甲子園までの激しい競争があります。関西の人間は計算的なものが働くので、関西人が全国に流出している理由はそこにひとつあると思います。
ただ、「動機はどうでもいい」と言うんですよ。野球をやる目的が「おカネ儲けしたいから」「プロ野球選手になりたいから」「有名になりたいから」「女の子にモテたいから」でも、何でもいい。
そういうひとつの動機があることで、高校に入ってから「ボーダレスな時代を生き抜くような力」を身につけていける。15歳の子が親元を離れて野球をやるのは、野球留学を否定する人たちが思っている以上の覚悟がなければ、できないんです。
深夜1時に寝て、翌朝6時に起床
──光星学院や明秀日立では、1日の練習スケジュールはどうなっていますか。
県外から選手を獲って練習をやるような学校のシステムは、特別なカリキュラムを組んでいるチームが多いと思います。
光星の場合、昼の2時くらいから練習ができました。それで9時くらいまでやると、計7時間。月曜、火曜は7時間授業になったりして、4時くらいから8時ごろまで練習すると、計4時間。そういうのをプールすると、1日平均5〜6時間。やっぱり7〜8時間練習するのは大変なことですからね。
──それでも、結構な時間ですね。
そうですね。それに寮生活の中には、今言ったようなことだけにとどまらないですからね。掃除、洗濯が入ってきて、試験になれば勉強もある。夜中の1時、下手すれば2時に寝て、毎朝6時に起きるという習慣の学校が多いと思います。
──それ以外に、1人で素振りや筋トレをする時間もあるわけですよね。明秀日立でも1日の流れは変わりませんか。
やり方も考え方も、青森の頃と同じような感じですね。
休日は2週間に1日
──練習時間と密度について聞かせてください。8時間練習するとして、ずっと100%の密度で練習できたら、2時間で同じようにする人たちより身につくものは多いと思います。反面、8時間集中し続けるのは不可能です。金沢監督は長い練習時間で、どうやって練習の密度を高めようとしていますか。
光星のときにそれをやろうと考えて、週に1回は積極的休養日をとっていましたね。「6日間練習すれば、1日リフレッシュする期間がある」というモチベーションのやり方でやりました。
それと練習の時間にはそんなにこだわらなかったんですけれど、練習スケジュールをきちっと確立してやりました。「これだけのことをやれば終わるんだ」とはっきりさせておくと、選手たちにはペース配分にもなるし。大きく言えば、その2点ですかね。
──目標やサイクルをつくってあげるということですか。
そうですね。マクロの部分では3カ月、1カ月、そして1週間と区切っていきます。たとえば月曜日を休みにしたら、火曜から日曜までの練習メニューをダーッと組んで、月曜に発表する。そうすると、「今週はこれだけやったら、月曜に体を休められる」とメリハリをつけることができます。
光星学院と明秀日立の違い
──明秀日立でも月曜が休みですか。
今の学校はまだそこまで成熟し切ってないので、休みは2週間に1回くらいですね。光星ではスケジュール通りに練習して、アクシデントに弱くなりました。試合では雨が降るとか、いろいろアクシデントがありますよね。
だから明秀日立ではランダムに休みを入れたり、あるいは休まなかったりしています。発表していたメニューと違う練習をポンと入れたり、明秀日立に来てから特異のやり方をしています。それで3年目。光星のときと違って、できあがった選手たちとそうじゃない選手たちの差があるんですよね。
──それでも着々と、強化されてきたわけですね。
なんとか茨城で準優勝までは来ました。今うちに来ている子は、ある程度のレベルの子なので。僕が光星の晩年は、全国制覇を狙えるだけの選手が来ていましたから。
「生半可な気持ちなら、よそに行ったほうがいい」
──光星学院は金沢監督の就任当初、無名校でした。どうやって強化したのですか。
就任したのは僕がキューバから帰ってきて、29歳のときでした。学校にも自分にも実績がないわけだから、まずは勝たなければいけない。
勝つためにどうするかといえば、地元の子らは来てくれないから、県外の力を頼るしかない。大阪桐蔭や智辯和歌山あたりに行けないような子たちのところに足しげく通って声をかけて、呼んできて、全寮制で鍛えていく。
そうやってある程度の力をつけて、地域の人らに認めさせて、地元の子たちにも来てもらえるような学校にするという方式しかなかったですね。
──選手や家族を口説くときには、「うちに来れば野球をするのにいい環境がある。君たちが住んでいる県より、甲子園にも行ける確立は高い」という話をするんですか。
環境のことは言いますけれども、「甲子園に行きやすいよ」とは一切言わないですね。「僕が徹底して鍛えます。だから覚悟をして来てもらわなければいけない。生半可の気持ちで来るのであれば、よそに行ってもらったほうがいいと思う」と話します。
ただ預かったお子さんを3年後、入れて良かったと思えるように必ずします。それはなにより、寮生活ですね。「寮生活と厳しい野球の練習で自分を培っていけば、必ずそれなりの選手になります」と伝えます。
あとは出口ですよ。「進路の責任を持って面倒を見る」ということですね。その2点をとにかく強調して、あとは相手が信じてくれるか、信じてくれないかの勝負。信じてくれた人たちがだんだん預けるようになってくれて、並行して力がついてきました。
田村龍弘は光星学院の正捕手として2011年夏から3季連続の甲子園準優勝に貢献。現在はロッテで活躍している。(写真:岡沢克郎/アフロ)
脱走後、鼻ピアスで帰ってきた坂本勇人
──2004年に坂本勇人選手(巨人)が入学した頃は、すでに強くなっていましたか。
そうですね。甲子園でベスト4に入っているような時期でした。
──坂本選手は高校3年間でどこが伸びましたか。
それまで才能だけでやっていたところに、努力なくして成功なしと知ったんじゃないですかね。言葉は悪いですけれど、首に縄をくくりつけてでも無理やり練習をやらせていましたから。
基本的には「組織は嫌いだ」っていう子だと思いますけれど、ただ、負けず嫌いでしたね。要は覚悟を決めてきているので、練習をさぼることは絶対なかったです。
──寮から出て行ったことがあるみたいですね。
1回だけ、「もうやめたい」ってなったときです。1年で実家に帰れるのは、正月の1週間くらい。そのときに地元に帰って、なんとなく高校生活をしている子らと触れ合って、自分がちょっと嫌になった時期があったんですよね。「何やってんだろう俺、みんな楽しそうやな」って。
で、鼻にピアスして帰ってきました。それで僕の目の前に座っていたから、「こいつ、やめる覚悟で来とるな」と思って。
でも、そんなのを僕が許すわけがない。部屋に呼んで、「やめる覚悟で来ているな」と聞いたら「はい」と言うから、すぐに荷物をまとめさせて、その日に大阪まで帰らせました。
その一方で坂本の親に電話して、「あいつから野球をとったら、一番の能力をとることになります。だから必ず、僕がやめさせることはない」って言いました。
地元の友達から「野球をやめてどうするんだ?」と言ってもらうように、外堀から固めましたね。「そうすれば、あいつも気づくと思います」って親に伝えて。
そうしたら1週間後、八戸に帰ってきました。そのときは相当の覚悟で来ていますから、以降は僕から注意することなく、野球に打ち込んでいましたね。
野球をやめる=転校を余儀なくされる
──親にも覚悟が求められますよね。
地元の学校だったら、仮に野球をやめても「学校にそのまま残ればいい」「しょうがないから、高校だけは卒業しよう」と言えます。
でも野球留学の場合、野球をやめると少なくとも寮は出されるわけですから。そこから下宿をするのは、なかなか難しい。「野球をやめる=転校を余儀なくされる」わけです。転校すると、1年間公式戦に出られなくなる。
だから「野球留学=ほぼ逃げ道がない」という状況で来ていますからね。こちらとしては、それをやめさせるわけにはいかない。みんな、そういう覚悟を持ってきていると思いますよ。
(取材・文:中島大輔)