みなさんの常識は世界の非常識

みなさんの常識は、世界の非常識Vol.20

社会に適応するな、適応する「フリ」だけしろ

2015/7/23

今年2015年春に入社した新入社員に、「仕事」と「プライベート」のどちらを優先するかを聞いたところ、「プライベート」と回答した人が53.3%で、「仕事」と答えた人の45.1%を上回ったことが分かりました。

これは、就職情報のマイナビの調査によるもので、「プライベート」との回答が「仕事」を上回ったのは、2011年の調査開始以来初めてです。

また、「残業することを容認する」、「仕事のあとも会社の人と過ごしてもよい」という人は、両方とも過去最低となりました。

先進諸国と比較すると労働時間が大変に長いことで知られる日本の労働環境ですが、「プライベート優先」という新入社員の感覚は、「常識」なのでしょうか。それともやっぱり「非常識」?

プライベートの過ごし方3類型

今回はこの問題、「ここまで掘るか」といわれるくらい、深く掘りましょう。とても大事な問題がひそんでますからね。まず、会社へのコミットメントがなくなるのは当然なんです。これからは、企業寿命も短くなるし、労働法制も脱終身雇用化していくから、ですね。

前回も指摘したけど、今後は終身雇用制はなくなりますし、国際標準である「正社員を解雇すること」が出来るようになっていきます。従って、会社に対して過剰に忠誠心を持ったとしても報われません。であれば、忠誠心をなくしていこうとなるのは、まあ合理的なんです。

問題は、会社に対する忠誠心が下がることなんかじゃない。それは当たり前。その分、プライベートにおいて何にコミットするようになるのか、こそが問題なんです。そこで、仕事ではないプライベートな時間の利用=コミットメントの仕方ですが、大体三つに分けられます。

第一に、巷でよくみかける発想が「個人のスキルアップ」です。例えば、資格取得や語学学習などに向けたコミットメントが上昇するということ。優等生的で、健全すぎる答えかな。まあ、いつも勉強していないと気が済まない「お勉強少女」「お勉強少年」が多いですからねえ。

第二は、「9時5時で仕事から離れて、好きな趣味に興じよう」というもの。実際、昨今はそういう人が多いですね。良いことです。面白い実例を思い出しました。僕がちょっと前にハロプロ関係のアイドルたちと一緒に舞台のイベントをやったときのことです。

壇上から「ここにいらっしゃる方々の多くは地方公務員ですよね?はい、地方公務員の方、手を上げて!」というと、半分以上、手が挙がる(笑)。なぜかといえば、9時5時で仕事を離れられて、土日は完全に休み、という、アイドル好きにぴったりの条件があるからです。

中高生アイドルは学校があるので、営業は基本的に土日です。地方公務員になれば土日の営業に行けます。収入もあるから「明日は札幌だね」とパネルを掲げて追いかけられます。アイドルの歌にあわせて30代以上の髪の毛が薄い公務員がクルクル回ってたりする(笑)。

さて、僕が今回とりあげたいのは、三番目です。これが本来あるべき姿です。それは何か。仕事は仕事として、「自分のホームベース=本拠地、つまり出撃基地であり帰還場所であるような場所を、ちゃんと作ろうじゃないか」という方向です。典型的には家庭や地域です。

表層の戯れに終始する男女関係

実はそこが危うい。今の若い人たちは、仕事の外側に、家族などのホームベースを作る力が著しく弱まっています。以前もお話した性的退却がこれに関係します。18歳以上の未婚男女の交際率(恋人がいる割合)が一番高かったのは1992年です(社会保障・人口問題研究所)。

若者の性体験率が最高だったのは男子は1999年(大学63%、高校26%)、女子は2005年(大学61%、高校30%)です。しかし最近(2011年)は男子(大学54%、高校15%)も女子(大学46%、高校24%)も激減(日本性教育教会)。大学生男子は9ポイント減、大学生女子は15ポイント減です。

これらは目に見える性的退却ですが、問題はこれに留まらず、もっと深い所にもある。交際相手がいる場合も、相手の心の中に深く入ることをしないことです。深く入ると自分と相手の間に共通性がないことがバレるので、深く入らず、LINEに象徴される戯れを永久に続ける。

A・チューリングがコンピュータの性能を調べるために、隔離された部屋にある「何か」と対話し、「何か」がコンピュータか人か区別できるかという「チューリング・テスト」を考えました。LINEでの戯れはコンピュータが相手でも出来る。ならば相手は入替可能な部品に過ぎない。

LINEに限りません。若い人のスマホでのメッセージのやりとりの大半は、相手が人間じゃなくても大丈夫。LINEのやりとり程度ならコンピュータでも扮技できます。コンピュータ云々を横に置けば、相手が「その人」じゃなくても大丈夫ということ。深さがないのですね。

こうした深さのない言語的戯れの延長線上で、若い人の多くはセックスし、「つきあってる」という話になります。相手の内面に入り込んで「相手の心に映ったものを自分の心に映す」ことをせず、「見たいものだけを見て、見たくないものを見ない」。そこに相手の唯一性はない。

そうした付き合いなら、相手のオーラに反応できず、相手の本気度を評価することもできない。相手が別の人と浮気していても気づかない。これが過去二年間のワークショップなどで見出した若い人たちの、標準的な性愛関係です。これで「つきあっている」と言えるのか?

浅い友達関係ならそれでもいい。でも彼氏彼女とか親友とかの関係で、それはないでしょ。相手がどこの誰でも務まる、会話とすらいえない言語的やりとりが延々続き、その延長上で、何を深い所で共有しているか分からない相手を、「恋人です」などと称する。おかしいです。

そんなんじゃ、揺るぎない家族なんて永久に作れません。家族でなくてもホームベースなんて無理。EU統計によれば、育休を取らない男ほど40歳代以上になるとモチベーションが続かない。ホームベースを作れないと、40歳代以上になったら仕事の意欲も失われるんです。

性的に過剰であることはイタイ

なぜこうした深い関係から退却が進むのか。歴史を80年代に遡ります。性教育研究会の調査によれば、若い男女(高校・大学)の性体験率は80年代に倍増します。特に女子が著しく、男子の性体験率を抜きます。その結果、80年代半ばに、目に見えない内的退却が進みました。

79年に創刊された『マイバースデー』と『ムー』があります。最初は恋愛おまじない雑誌『マイバースデイ』が人気で、〈性に乗り出せないという悩み〉を抱えた子が読みました。それが86年を転機に『ムー』人気にシフトし、〈性に乗り出したがゆえの空虚〉が前景化します。

86年の人気ナンバーワンアイドル岡田有希子の自殺事件を機に、『ムー』のお便り欄で前世の名前を名乗って少女たちが仲間を募り、岡田有希子と同じ方法で一緒に飛び降り自殺するブームが起こりました。あまりに連続したので、若年者自殺の統計的特異点を形成しました。

巷では30歳以上離れた男との恋に破れた事が取り沙汰されていました。でも当時ナンパで出会った若い女子の多くは、容姿にも才能にも恵まれたアイドルが30歳以上離れた男へと向かわざるを得なかった「性愛の不毛」に感応していました。〈性に乗り出したがゆえの空虚〉です。

僕はかかる内的退却についてのリサーチを2000年にZ会の名簿を使ってやりました。両親は愛し合っていると思う大学生とそうでない大学生に分けると、前者は、交際率が高いが経験人数は少なく、後者は、交際率は低いが経験人数が多い、という対照的な結果になりました。

こうした〈性に乗り出したがゆえの空虚〉は、88年以降のお立ち台ディスコブームや素人AV出演ブームや読者ヌードブームなど、一連の〈男の視線を経由しない性愛の戯れ〉の隆盛を招きます。実は、その延長線上に、93年以降のブルセラ&援交のブームがありました。

ブルセラ&援交を93年に発見した際、こうした流れを知る僕は「とうとうそうなっちゃったわけか」という感じで驚きませんでした。ちなみにこの発見を朝日新聞に書いたら僕の元に取材が殺到し、数百人の女子高生ネットワークをマスコミに繋げたら援交ブームになりました。

マスコミ熱を背景にフォロワーが参入すると、援交が〈自己提示ツール〉から〈自傷ツール〉に変じました。折しも95年秋からは「エヴァンゲリオン」ブームと共振してAC(アダルトチルドレン)ブームになります。援交する子は自傷系の代名詞みたいになっていきました。

それで援交などの性的過剰はカッコ悪いとのイメージが拡がる。結果〈援交第一世代〉が退却して〈援交第二世代〉に交替すると、カッコいいリーダー層の子が援交から退却します。ちなみに、96年のピーク時に高校生だったか、それ以降高校生になったかで世代を分けます。

リーダー層の子は援交から離脱して「ガングロ化」します。ガングロには〈男たちの視線を遮断する機能〉がありました。新参のフォロワー層を象徴するのが「白ギャル」。ガングロたちは「ウチらはもうやらないよ。今やってるのはあそこにいるみたいな白ギャル」と指さしました。

かかる次第で、ガングロ化に並行して〈性的に過剰であることはイタイ〉との意識が拡大しました。リーダー層はストリートから退却し、24時間出入り自由な友達部屋に屯する〈お部屋族化〉しました。女子における〈性的な過剰を忌避する営み〉の出発点がここにあります。

リアルに過剰に拘るのはイタイ

男子はどうか。援交ブームの最中、援交の是非を巡る高校生討論会を、高校の先生の協力で幾つか司会しました。肯定側は必ず女子が多数になり、否定側は男子が多数になりました。昔ならマドンナだった筈の子が「カネで横取りされている」と感じていた男子にとって自然です。

先日もある学会でこの話をしたら、〈第一世代〉と同世代の男性らがあとで寄ってきて、「本当にキツかったっすよ、可愛い子がブランドものを持っているだけでウチラはこそこそ噂してましたから」と述懐していました。僕自身も似たエピソードを山のように知っています。

その一つ。恋い慕う美しい女子にコクったら援交している事実を告白された男子が、どうしたらいいのか分からないと僕に相談してきたことがあります。当時はよくある話です。16歳の高校一年だったその男子は、今は日本とフランスを行き来するジャーナリストです(笑)。

96年、院ゼミ男子の7割がギャルゲーマニアだと知った、僕が「生身の子とやれないからって逃げんなよ」というと、ある男子が「違います。童貞じゃない僕らは、リアルな子がゲームの中の子と同じように振る舞うのだったらセックスしてやってもいいという感じ」と答えました。

彼は「今時リアルに拘るのはイタイんですよ」とも言いました。96年という同じ時期、援交に自意識のイタさを見た女子が〈性的に過剰であることはイタイ〉と忌避し、援交に女子の得体の知れなさを見た男子が〈リアルに過剰に拘るのはイタイ〉と忌避し、シンクロしたのです。

共通して「セックスできないから性的退却に向かったのではない」のがポイントです。実際、性的領域に限らず、90年代後半には〈過剰さというイタサの忌避〉が一般化しました。例えばオタク界隈では〈蘊蓄狂騒に過剰に拘るのはイタイ〉という感覚が急速に拡がりました。

蘊蓄に過剰に拘ることはイタイ

当時取材で立てた仮説を披露すると、背景はインターネット化による〈過剰な島宇宙化〉です。ネットは〈摩擦係数の低いコミュケーション〉です。マイナーな趣味の同好者をピンポイントで検索できるし、匿名性が〈表出の困難〉と〈尊厳の困難〉を無関連化してくれます。

〈表出の困難〉とは、相手の目を見られないとか赤面するとか手が震えるとか。〈尊厳の困難〉とは、小六にもなってウンコ漏らしたとか。後者については、福音書によれば、イエスも故郷では奇蹟を行なえなかったとあります(笑)。

ネットはこれら困難を回避させます。それゆえ〈摩擦係数の低いコミュニケーション〉になります。すると、ピンポイント検索の便宜もあって、〈過剰な島宇宙化〉が促進された上に縦割りとなり、人々は〈見たいものしか見ないコミュニケーション〉に淫しがちになります。

こうした〈過剰な島宇宙化〉は二重の不合理を招きます。第一に、ネットの小規模な島宇宙にハマるとオフラインの友達がますますいなくなる。第二に、島宇宙が多すぎると「二重の選択性」(ニクラス・ルーマン)の第一段階に負荷が掛かりすぎ、選択の全体が難しくなります。

二重の選択性とは言語の概念的使用に関わるもので、「まず選択前提ないし選択地平を選択し、その上で項目を選択すること」を言います。「何聴こう?→ジャズ聴こう→マイルスを選ぼう」みたいな感じです。ところがジャンルが細分化すると「ジャズ聴こう」の段階で躓きます。

こうした逆説への気づきが90年代後半に拡がった結果、97年を境にオタク的コミュニケーションが〈蘊蓄競争〉から〈シェアの戯れ〉にシフトします。並行して、複数の島宇宙を股に掛ける〈多重帰属化〉と、相手次第で島宇宙を切り替えする〈社交ツール化〉が生じました。

社会に適応すると性愛が空洞化

かかる経緯を見ると(1)女子の性的過剰の回避と(2)男子のリアル過剰の回避と(3)オタクの蘊蓄過剰の回避のシンクロが偶然でないことが判ります。共通して「何事につけ過剰さがコミュニケーションを困難にする」との意識ゆえの〈過剰さというイタさの回避〉があります。

これだけ流動性が高く多元的になった社会では、「深くコミットする」「相手の中に入る」といった営みはリスキーです。逆に言えば、過剰さを回避しないと、人間関係を安定的に維持できなくなります。そうした社会状況への適応のために、浅く表層的に戯れようとする。

ところが、近代の性的領域に於ては、「偶然を必然に変換すること」あるいは「内在に超越を見ること」で、タダの女(男)を運命の相手と見做します。この作法が、ドイツ流の民族ロマン主義に対するフランス流の性愛ロマン主義で、それが近代の家族形成原理になったんです。

近代社会では、性愛と国家の両領域で、ロマン主義を必要としてきました。普通の女(男)を運命の相手と見做すことで家族形成が可能になり、ただの集団を崇高なる故郷と見做すことで国民国家形成が、可能になるからです。両者は並行して19世紀に育て上げられました。

「ただの女(男)を運命の相手と見做すことは如何に可能か」。18世紀末以来のフランス恋愛文学に於ける基本的問題設定です。回答として見出されてたのは、相手の心に映るものを自分の心に映すこと、そしてそれを前提に時間をかけて苦難に充ちた関係の履歴を積み上げること。

そう。表層的な戯れの延長上に、必然的な関係なんか出来るはずもないんです。「諦めて世間に従っている」のでない限り、互いに相手の心に深くダイブする者たちだけが、性愛を通じて絆を作り、それをベースに家族を作ってきた。そうやってホームベースを作ってきました。

国家形成と家族形成と変性意識

近代化とはM・ウェーバーによれば「計算可能性の上昇をもたらす形式的手続きの一般化」のこと。ところが民族ロマン主義も性愛ロマン主義も「戦争」や「苦難」に象徴される〈変性意識状態〉を不可欠とします。〈変性意識状態〉は計算不能だから、近代化にとって実は異物です。

別の言葉で言うと、近代化の核である計算可能性の上昇は、言語の概念的使用を不可欠とします。ところが、性愛も愛郷心も、言語の概念的使用に収まらない感情の作用です。ヒトが5万年前まで言語を使えなかったという長い歴史に関連するものです。

とはいえ、そうした〈変性意識状態〉を媒介項とした国民国家形成や家族形成があって初めて、資本主義的市場経済(を支える法形成や、感情的回復を含めた労働力再生産)が持続してきた。今のところ、国民国家抜きの資本主義も、家族抜きの資本主義も、可能性があり得ない。

少子化対策として行政や民間がマッチングサービスを提供していますが、表層の戯れしか知らぬ者たちは、家族を持続可能には営めません。自己啓発の一環としてのナンパ講座が流行っていますが、セックスを通じて絆を作ることができない輩はセックスしてもそれで終了です。

どうすれは良いか。問題の本質は、幾つかの方向から述べたように「社会に適応すると、性愛が不全になり、ホームベースが作れなくなる」こと。であれば、「社会に適応するのをやめ、適応するフリで留めることなしには、性愛不全から脱却できない」ということになります。

「流動性が高く多元的で複雑な社会に適応するには、過剰さによるノイズを持ち込まないために、相手に深くコミットしない」をベタに実践したらダメ。社会に適応する「フリ」だけでいい。そもそも社会はクソ。クソな社会に適応しきったら、頭の中もクソになっちゃうでしょ。

実際、若い人は頭の中がクソになっちゃって、表層的なメッセージのやりとりで意味のない戯れを続け、性愛から見放されてる。こういうことはやめて、社会に対する適応は「ほどほど」にする。繰り返すと、表層的な戯れの中で、充実したプライベート空間は出来ません。

だから、「仕事はほどほど」っていうのはいいんですが、「仕事はほどほど」の後に何をしているんだよ?ってことです。プライベートを重視するのではなく、プライベート空間でホームベースを重視しろってことです。専らそこに注意を集中しないと、一人寂しく死にます。

(構成:東郷正永)

<連載「みなさんの常識は、世界の非常識」概要>
社会学者の宮台真司氏がその週に起きたニュースの中から社会学的視点でその背景をわかりやすく解説します。本連載は、TBSラジオ「デイ・キャッチ」とのコラボ企画です。

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