名門UCLAの流儀(第1回)
なぜ日本人がUCLAバスケ部のヘッドマネージャーになれたのか
2015/7/21
日本人が世界のスポーツビジネスの舞台で活躍するには何が必要なのか。何が武器になるのか。
CL放映権をアジアでセールスする岡部恭英は、自らが最先端の場に立ちながらも、これまでずっと自問自答してきた。
その答えを求めて、本連載では岡部がスポーツビジネスの世界で活躍してきた日本人にインタビューする。
第1回のゲストは、1980年代にカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のバスケットボール部でヘッドマネージャーまで上り詰めた横山匡(現アゴス・ジャパン代表取締役)だ。
計3回にわたり、なぜ面接で合格したのか、名将ジョン・ウッデン(John Wooden)の哲学、UCLAで得た人生訓を取り上げる。
【今回の読みどころ】
・UCLAバスケット部は全米優勝回数1位
・ヘッドマネージャーは学費免除、生活費支給
・1979年日本人留学生がマネージャーに
・合格の理由はその場で「やります!」と手を挙げたこと
・4年時にヘッドマネージャーに昇格
・週に2回は700gのステーキ
・アウェーでの露骨な嫌がらせ
リバウンド力に応じて空気圧を調節
岡部:UCLAのバスケットボール部と言えば、全米大会で最多優勝回数を誇る超名門で、プロではありませんが今のサッカー界でたとえたらレアル・マドリーのような存在だと思います。監督の年俸は約3億円だそうです。
そのマネージャーに、日本人がなったのはものすごいこと。まずマネージャーというのはどんな仕事ですか。
横山:地味なところで言うと、洗濯もやりますし、遠征に行く前のユニホームのパッキングもやりますし、練習の準備、それから簡単なデータの統計処理。あとはスパイから守るために、体育館を閉め切る。そんな門番みたいなこともやります。
試合前のちょっとした裏話だと、ホームチームが試合のボールを用意するんですね。規定の反発係数にはある程度の幅があって、空気圧を調節することができる。
相手との力関係で、UCLAのほうがリバウンドで不利なときは、空気を規制の限界まで入れる。そうしたら大きく跳ね返って、予測しづらいリバウンドになるからです。逆に自分たちがリバウンドで有利だと思ったら、空気を緩めに入れる。リバウンド1、2個の違いで勝敗が分かれるゲームですから。
セロテープで門限チェック
横山:また、試合は全国放送されるので、TVタイムアウトが入るんですね。だから、あらかじめコマーシャルがいつ入るかを探っておくと、コーチが貴重なタイムアウトを使わないですむことがある。ここでも確率の追及です。
「今日は12分と8分と4分のところでTVタイムアウトが入ります」といった感じで、コーチに伝えるのも役目です。
ヘッドマネージャーになると、遠征に帯同します。
遠征先での練習場の確保、レストランの確保、ホテルでの門限チェック。たとえば門限が午後10時だとしたら、僕が部屋をまわってドアの外の上のところにセロテープを貼るんですよ。外に出ると、テープがはがれるのでバレます。
試合中は水やガムを用意したり、タイムアウトでタオルを配ったりと地味な仕事が多いですが、華やかなところで言えば、ベンチに入る3人以外のアシスタントマネージャーはチアリーダーと同じセクションに座れます(笑)。
ヘッドマネージャーはほぼプロ扱い
横山:こういう仕事をヘッドマネージャーの指示のもと、アシスタントマネージャーととともに行います。
アシスタントは完全ボランティアですが、ヘッドマネージャーだけは選手と同じ扱いで学費が免除される。
奨学金、生活費支援、教科書代も全部出ますし、選手たちと一緒にチームディナーが用意されるので、週に2回くらいは700gのステーキを食べていました。
僕は5年間在学中の4年生のときに、ヘッドマネージャーになることができました。
空前の大学バスケットブーム
岡部:横山さんは父親の仕事の関係で中学校2年間をイタリアで過ごし、高校からアメリカのカルフォルニア州オレンジカウンティに移ったそうですね。そもそもなぜUCLAでバスケット部のマネージャーになろうと思ったんですか。
横山:ちょうど僕が1年生のとき、マジック・ジョンソン擁するミシガン州立大と、ラリー・バード擁するインディアナ州立大が全米大会の決勝で対戦して、空前の大学バスケットブームが起こったんですよ。1979年のことで、後にこれが1980年代のNBAブームにつながりました。
そのシーズン、UCLAは優勝候補のひとつだったんですが、トーナメントの1回戦であっさり負けてしまった。そうしたら寮の6階からソファーが降ったんですね。
もはや宗教というか、すごい盛り上がりで。結局、マジック・ジョンソンのミシガン州立大が優勝するのですが、一気にバスケットに魅了されました。
僕はイタリアに住んでいたとき、ちょうど1974年西ドイツW杯があって、イタリアがポーランドに負けて1次リーグ敗退が決まり、ローマでTVが降った。再びスポーツに熱狂するコミュニティに来たんだというのを実感しました。
学校新聞で出会った募集の告知
岡部:そこからどうやってマネージャーになったんですか。
横山:2年生になったとき、バスケットボール部のコーチが変わり、ラリー・ブラウンが新コーチに就任しました。のちにNBAでピストンズを優勝に導き、初めて大学とNBAの両方で全米王者になった名将です。
ただ1年目は世代交代を進めたこともあって、何十年振りかのスロースタートだったんですね。アシスタントマネージャーは完全にボランティアなんですが、チームの調子が悪いと、教室に入ったときに同級生たちからブーイングを食らう。
それでアシスタントマネージャーが何人か辞めたのでしょう。学校新聞に「UCLAバスケットボール部・マネージャー募集」という小さな告知が出た。
あのコーチに面接してもらえるだけでもうれしいし、ダメもとで受けてみようと思い、説明会の日時に体育館に行ったんです。
運命を分けた説明会
応募者は約15人ぐらいだったかと。有力OBにツテがある学生もいたと思います。コート横のスタンドに座らせられ、ラリー・ブラウンが話し始めました。
突きつけられたのは、厳しい言葉でした。
「UCLAバスケットボールを支えるのはプロの集団である。すなわち、マネージャーもプロの仕事だ。常にプレーヤーズファーストで、自己犠牲の精神が求められる。毎日午後1時から午後7時まで、コミットする必要がある。それでも君たちにスポットライトが当たることはない。これは人生の大きな決断だ。1週間の時間を与えるから、じっくりと考えてほしい」
このスピーチを聞いたら、誰でも「大学を卒業できるのか?」という不安が頭をよぎると思います。少なくとも4年では単位がそろわず卒業できない。学費もかかるので、両親とも相談すべきでしょう。だからコーチは、1週間時間を与えたのです。
でも、僕は説明会が解散すると同時にコーチに駆け寄って、「僕はやります!」って手を挙げました。もう完全に直感。気がついたら口にしていたという感じでした。
そうしたらコーチがこう言ったんです。
「最初に手を挙げたやつは採るつもりだった。お前は明日から来い」
実はラリー・ブラウンは、1964年東京五輪で金メダルを獲ったアメリカ代表のキャプテンでした。東京に思い入れがあったことも、後押しになったかもしれません。とにかくラッキーでした。
短縮名の呼び名を断固拒否
岡部:日本人が名門大学バスケット部のマネージャーになるのは異例のことだと思います。その中でどうやって存在を示していったのでしょうか。
横山:最初に入ったときはヘッドマネージャーのもと、僕を含めてアシスタントは3人いました。シーズン中に1人辞めたので、マネージャーの序列で言えば3人中の3番目です。
ひとつ僕のアドバンテージになったのは、高校のときに陸上をやっていて黒人との付き合いが結構あったことです。そこでは黒人系の英語が飛び交っていました。
UCLAでも黒人の選手が多く、チームメイトの白人ですら言葉がわからないことがある。一方、僕には多少の馴染みがありました。
それでも最初はついていくのが大変で、頼まれた買い物を間違ったこともありましたが、途中から開き直って、もう1回聞き返すようにしていました。
彼らは「タダシ」という僕の名前を発音できず、「タッドでいいか?」と言ってきたのですが、「それは親がつけた名前ではない」と断固拒否し続けました。だから1年目はずっと「ヘイ、ユー」とか「オリエンタル・エクスプレス」と呼ばれていて。
ただ、1シーズン目が終わって自主練に付き合っている間に、「タダシ」と呼んでもらえるようになったんです。ようやくチームの一員になれた気がしました。
コーチからの何気ない感謝
マネージャーはとにかく時間を取られるので、成績もじわじわと落ちていく。これはマズいと思って、とにかく進学の可能性を残すぎりぎりのラインをキープすることに専念しました。
そういう中で続けられたのは、輝いているやつらの片棒を少しでも担げているっていうモチベーションがあったから。体育館をのぼると、全米優勝のバナーがずらっと天井からつるされていて、その伝統の下で自分が過ごせているという充実感もあった。
何だかんだ言いながらも、コーチが縁の下の力持ちの僕らに対して、認知してくれているのを感じて。役に立てたんだな、感謝されているんだな、っていうのがあって、それが力になりました。
監督と選手が後押ししたヘッド就任
岡部:そうやってアシスタントマネージャーで経験を積んだのちに、どうやってヘッドマネージャーに昇格したのでしょうか。
横山:すでにお話したように僕は3番手の立場で、上の2人が順番に卒業して、そのときに自分の力が認められていたらもしかしたらヘッドになれるかもしれないなと思っていました。
ところがあまり大きな声で言えないですが、突然2番手の人間が停学処分になってしまった。その結果、予定より1年早く、僕に番が回ってきたんです。
通常、ヘッドの就任期間は1年なのですが、僕が早く就任すると期間が2年になってしまう。今までそんなケースはまれでほぼなかったことなので「翌年に課題が残るかな」と個人的には思っていました。
でも、コーチと選手が話し合ってくれて、「タダシでいこう」と言ってくれた。僕にとって、何人でもない、「個人」として認められた最初の出来事。ものすごく大きな自信になりました。
それまでにもアジア系アメリカ人がヘッドになったことはあったそうなのですが、僕の場合、留学生という立場でした。
すでに話したように、ヘッドのみ、学費が免除されます。ただ、留学生の授業料は一般の生徒の3倍くらいするんですね。それをチームが負担することになります。普通はあり得ないんですよ。コーチ、スタッフ、選手の後押しに本当に感謝しています。
ヘッドになって感じたアウェーの洗礼
ヘッドになると、ホームのときは練習でアシスタントに指示するのとゲーム当日の対応が主な仕事です。
しかし、アウェーでは状況が一変します。遠征に行くのはヘッドだけだからです。空港についたら両肩にそれぞれ5つずつバックを担いで運ぶといった感じで、すべてひとりでやらなければなりません。
さらにアウェーでは、時には露骨な嫌がらせすら待っています。
たとえば試合前日、相手側から「練習でコートを使えるのは午後5時から」と言われる。練習が終わるのは8時で、それから夕食を外に食べに行ったら、次の日は寝不足なんですよ。デーゲームの前夜だったりもします。これほどアウェーは違うのかと驚かされました。
とにかく世界のトップを目指している連中と毎日過ごしていると、なんか勘違いするんですよ。もしかしたら自分もこの連中の半分ぐらい努力したら近づけるかなって。そういう場にいることが大事だと感じました。
彼らも普通の大学生だし、社交パーティーにちゃんと顔を出して、でも食事は気にして節制している。のちに知り合った陸上の金メダリストはこういう場でも肉はササミ肉しか食べない。好きなことにこだわって取り組めば、自分にも目指す先に近づけるはずだと感じさせてもらえました。
ジョン・ウッデンの言葉にも「Perfection(完全)は届かない目標であり、そして諦めてはいけない目標である」というものがあります。今できるベストに取り組んで、目標に近づいていくことが大切ということです。
(構成:木崎伸也)
*次回は、「UCLA史上最高の名将、ジョン・ウッデンの哲学」です。