ブラジル政府、日本人迫害を謝罪 戦中戦後の強制退去と収監
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追記 字句修正
本件の背景としてブラジルの日系移民の歴史を記します。世界史の教科書には載っていませんが移民問題の学びになります。第二次大戦後の日・ブラジル関係は良好ですがこんな歴史もあったわけです。
<なぜ日本人がブラジルに渡ったか?>
1888年ブラジルで奴隷制廃止。コーヒー農園労働者不足対応として欧州移民に注目→コーヒー価格暴落→欧州移民への待遇悪化で欧州諸国がブラジルへの移民送出禁止→日本移民に注目が集まる。
日露戦争後の経済疲弊もあり、日本政府も北米以外の移出先探しを行い、サンパウロ州政府と協定締結。1908年に笠戸丸が神戸港を出港したが781名の方々(家族移民が殆ど)が初のブラジルへの移民として渡航。
<以下時系列で整理。主な出所 ブラジル日本移民・日系社会史年表 サンパウロ人文科学研究所編(1996年)>
1910年代:欧州からの増減によりサンパウロ州は日本移民への補助金交付中止・再開など安定しない施策。しかし、日本側では移民送出を行う国策会社設立するなど積極的な移民促進策。移民は自作農に転換し、サンパウロ州では日本コミュニティも鉄道沿いに複数形成。
1923年~ 関東大震災もあり、移民送出に拍車。日本移民の制限も含まれたレイス法案が提出されるも政府財務委員会による調査の際、日本移民が称賛されている状況(正直さ、勤勉さ)を把握し、同法案は廃案。
1925年には日本側で国策移民開始(船賃支給)。
1927年には日本人移住地を建設する目的の会社(海外移住組合連合会)も設立した。
ただ、この時代、欧州文化礼賛を背景にブラジルは移民選別開始。また、日露戦争の勝利で黄禍論が北米からブラジルにも伝わり始める
1934年には外国移民二分制限法公布で日本移民の割当が非常に少なく制限される。
1938年新移民法実施で日本語での活動に制限(バルガス政権は。中央集権国家形成の一環で文化的統制を実施)。また、ブラジル側は第2次大戦で連合国側についたので日、独、伊の学校が全面的に閉鎖。
1939年にはブラジルより引き揚げる帰国者多数。
1941年邦字紙停刊
1942年国交断絶。一部集住地からの立ち退き命令、資産凍結令。警察による拘束続出。
1945年~47年勝ち組、負け組問題も発生。日本戦勝を信じる集団が敗戦認識者を殺害する事件が100件以上起こり20人以上が犠牲。今回検討されているのは、第2次世界大戦中の強制収容についてです。
米国やカナダでやられたのと同じやつです。
もともと、20世紀初めに日本人入植者がブラジルに招かれたのは(米国ではすでに日本人お断りになっていた)、奴隷制を廃止したがために、それまで農業、特にコーヒー農園で働いていた黒人の代わりが必要になったためです。
その待遇は過酷なもので、最初の数年間の死亡率でいえば、奴隷制よりもひどいものでした。
日本人が送り込まれた開拓地では、マラリアなどで大多数が死亡し、撤退する例が相次ぎました。
その時期についても謝罪があってもよいようなものですが、なかなかしないでしょう。
謝罪があるかどうかは、日系人がブラジル社会でどれだけ力を持つかにかかっています。
第2次世界大戦中にブラジル政府が没収した日系人の資産については、さすがに返還されましたが、60年以上かかっています。
返せばいいというものではなく、強制収容や資産の没収によって、明らかに経済的な不利益があったし、死んだ人間もいます。
それについての補償までは出てこないでしょう。謝罪だけでもないよりはましですが。歴史的です。記者キャリアのスタートがブラジル企業だったので、やや肌感覚あります。
ご参考まで:戦後のブラジル日系人で起きた勝ち組・負け組抗争を描いた映画『汚れた心』を見ても、当時の雰囲気が少しはわかると思います。
📹予告編
https://www.youtube.com/watch?v=n9mF79rrkow