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古き日本を知ろう!「古地図から見る日本」

古き日本を知ろう!「古地図から見る日本」

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瀧波 一誠
「地理ソムリエ」になろう!瀧波 一誠

はじめに

この度、NewsPicksでトピックスを持つことになりました、瀧波一誠です。

こちらでは、地図や自然環境、産業技術、文化など、地理の観点から様々なテーマで掘り下げていきます。

最初はまず、「日本」について、様々なテーマに基づいて見ていきたいと思います。

日本は自然環境、産業、文化などを見ても多様性に溢れており、それが独特な魅力として人々を惹きつけています。

2023年の訪日観光客数は2506万人、旅行消費額は5兆2923万円。
また、傾向としてかつて盛んだった「爆買い」に後押しされた買い物の支出は減少しつつあり、総額の3割を切っています。一方で、宿泊だけではなく、飲食やアクティビティーに対する支出が増え続けており、これは日本の自然環境や文化に魅力を感じるインバウンドが増えていることを示唆しています。

これからの日本の観光は、「安い」ことによる「量」の売り込みより、コンテンツの充実による「質」の売り込みを強化していく時代に入っていくことを目指す必要がありそうです。

現状、実は多くのインバウンドは、情報源としてSNSのインフルエンサーの発信を参考にしていることが多く、「バズった」特定の観光地が急激にブーム化し、オーバーツーリズムを引き起こしています。

そのような状況を抑制し、観光業による収入を(希望すれば)得ることで地域振興を図る、インバウンドの分散化も必要で、そのためには日本各地の地域の魅力を発信できる人が増えることが肝要だと考えています。

というわけで、まずは、いわば「日本ソムリエ」になるための第一歩として、日本の自然環境、人文、歴史、技術など、色々な切り口から日本の魅力に触れていきたいと考えています。

では、本題。
今回のテーマである「日本の古地図」について触れていきたいと思います。

日本最古の地図とは?

2018年6月、世間を騒がせたニュースがありました。

それは「最古級の日本地図発見」というもの。

発見された地図は、「日本扶桑国之図」と呼ばれます。現存する、日本全体が描かれている地図としては最古とされています。

古さで言えば、14世紀初頭に製作されたと考えられている京都、仁和寺所蔵や神奈川県立金沢文庫(横浜市)所蔵の「行基図」の方が古いと考えられていますが、欠損部があるため全国が描かれているわけではありません。

※著作権の関係で、日本扶桑国之図はこちらからご覧ください。

この「日本扶桑国之図」の特徴は、全国が描かれている以外には、

・北海道が描かれていない
・海岸線や「国」の境界線はかなり大雑把
・佐渡島や伊豆大島など、主要な島が描かれている

・「龍及国(りゅうきゅうこく)=現在の沖縄」が描かれている
・港町の表記が多い

という特徴が見られます。

龍及国の記載は鎌倉時代、港町の表記は水運が発達した室町時代に増えました(室町時代作とされた大きな理由のひとつ)。ちなみに、龍及国には、「頭が鳥・体が人間」の住民がいる(!)との記載があります。

実は古代~中世の日本地図には、中国や朝鮮の他に「羅刹国(鬼が住むところ)」や「雁道(異形の者が住むところ)」などの異国の記載があるものも多く、龍及国の表記もそれに近いものです。
桃太郎の「鬼が島」をイメージしていただくとわかりやすいでしょうか。
いずれにしても、この龍及国の表記には当時の人々の海外意識がよく表れていると言えます(下の絵は江戸時代、葛飾北斎の筆による鬼と空海を描いたもの、鬼のイメージ図として)。

Katsushika Hokusai 葛飾北斎 (1760-1849), Public domain, via Wikimedia Commons

ここでちょっと、「行基図」についても説明をしておきたいと思います。

この地図は、1656年(明暦2年=江戸時代初期)に出版された書籍についていたものが有名な地図です。原図は、行基が描いたとされています。

村上勘兵衛(Murakami Kanbei), Public domain, via Wikimedia Commons

行基は、奈良時代に活躍した仏僧です。

Ogiyoshisan, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

当時は「国のために祈る」ことが中心だった仏教を民間に普及させ、数々の土木事業や慈善事業を推進して、人々を救うことに力を尽くしました。
その活動は朝廷の方針に反していたためたびたび弾圧を受けたものの、人々からの圧倒的な支持により弾圧を跳ね返し、最終的には聖武天皇から東大寺建立の責任者として招かれるほどになります。(東大寺の大仏を造立する責任者として大抜擢されたのです)日本で最初の「大僧正(仏僧の最高位)」でもあります。

しかし、行基が描いたというのはあくまでも伝説で、原本も現存しません。
その模写とされる地図はそれぞれの時代に残っていて、最古のものしては805年(延暦 24 年=平安時代初期)とされるもの、また1305年(嘉元3 年=鎌倉時代末)に写されたとされる京都仁和寺蔵のものがあります。

恐らく、現存する日本地図で年代がかなり正確に特定されているものとしては、京都仁和寺蔵の行基図が最古なのではないかと思います。
もちろん、今回発見された地図は「欠損がない完全なもの」で「年代が最古に近い」という点で、超一級の資料であることは間違いありません。

行基図は、よく見ると山城国(今の京都府など)を中心に五畿七道が描かれています。
行基が活躍したのは奈良時代(都は平城京=奈良)なので、この地図が原本そのままだとすると、当時は存在しなかった都(平安京)を中心に描いているのはおかしい、ということになってしまいます。

可能性としては、

・実際に行基が作った地図が、時代に応じて加筆修正された
・平安時代に描かれた地図が、「こんなすごいものを描けるのは行基様しかいない」と、半ば伝説化していた行基と結びついて「行基が描いた」ことになってしまった

などが考えられます。
正直なところ、どちらも可能性はあると思いますが、こればかりは推測の域を出ません。

さて、改めて「日本扶桑国之図」と「行基図」をもう1度見てみましょう。

村上勘兵衛(Murakami Kanbei), Public domain, via Wikimedia Commons

図をよく見てみると、全体的に「丸い」印象を受けませんか?
国境も海岸線も、ギザギザとした形ではなく、お饅頭を積み重ねたような形…と言えばいいのでしょうか。

この描き方は、海外の地図でもあまり見かけない珍しいスタイルです。
これを、日本は平安時代初期から江戸時代までずっと変わらず続けていたことになります。
比較のために、ヨーロッパやアラビア世界の代表的な地図を載せてみます。

エラトステネスの世界地図Edward Bunbury, Public domain, via Wikimedia Commons
イスタフリの世界地図Edward Bunbury, Public domain, via Wikimedia Commons

イスタフリの世界地図は、曲線を基調に描いているあたりでちょっと似たような部分がある気がします。
では、これらの情報を基に、「日本扶桑国之図」と「行基図」の描き方について考察してみましょう。

「日本扶桑国之図」「行基図」の描き方を考える

まず、2つの地図を改めて見てみます。

行基図村上勘兵衛(Murakami Kanbei), Public domain, via Wikimedia Commons

両者の特徴を改めて見てみると、共通点は

・お饅頭を重ねたような形になっている
・街道が描かれている
・「国」の位置関係はある程度正確

なのですが、まず、このような描き方になった理由を推測してみます。

①詳細な形を描く技術がなかった
②詳細な形を描く必要がなかった
③このような形が、当時の陸地の形として当然視されていた

ぱっと考えつくところとしては、このような理由が挙げられそうです。まずは、これらの理由についてそれぞれ考えていきたいと思います。

①技術がなかった?

日本の地図というと、行基図のような全図が注目されがちですが、日本最古の地図と言えば、西大寺所蔵の「大和国添下郡京北班田図」が出てきます(早稲田大学所蔵、リンク先)。

班田図は、律令体制下で、班田収授法による班田給付を円滑に行うために描かれた地図です。現在でいうところの、固定資産税台帳の地図に近いものです。

この地図では、「どこにどのような水田があるか」が最も重視されるデータです。
後に荘園が発達すると、班田図をもとに荘園図が描かれるようになります。

この地図を見ると、水田の場所を把握するための地図だけあって、絵的な部分はあるもののきちんと碁盤目状に土地を区切ってあり、それなりの正確性をもって地図が描かれていたことがわかります。

後の時代になるとさらに正確性が増してきます。
江戸時代初期に描かれた国絵図となると、

江戸時代初期に描かれた「慶長国絵図」(リンク先は肥前国のもの)が挙げられます。


海岸線も含め、かなり正確な地図に描かれています。
これは、「それぞれの国の正確なデータを提出せよ」という江戸幕府の命令で作られた地図ですので、海岸線や地形などのデータの正確性を重視しています。
やればできるじゃないですか!という感じですね。

この地図は江戸時代初期に描かれたものですが、行基図は江戸時代中期ごろまでは一般的に出回っていました。
測量技術も、江戸時代よりかなり前から土木建築や治水、鉱山の採掘などの目的で発達していました。
そのため、「技術がなくて描けなかった」ということは考えづらいと言えます。

②必要性がなかった?

地図には目的に応じて様々な図法が使い分けられるように、「必要性に応じて描く内容が異なる」のが一般的です。

例えば、ローマ帝国で広く使われていた「ポイティンガー図」も「各都市間の距離だけわかれば問題ない」という、道路地図という用途に特化されたものでした。
そのため、陸地や海の形状については重視されず、街道や都市に関する情報が詳しいのです。

Bibliotheca Augustana, Public domain, via Wikimedia Commons

では、この考え方を行基図などに当てはめてみます。

その視点で見ると、妙な点があります。
五街道など、主要街道の大まかなルートは描かれているものの、それ以上の情報の記載が一切ないのです。
街道の距離も、どのような町があるかも、何の目印もありません。これでは、道路地図としても使い物になりません。
確かに日本では古代から官道、その後も街道が整備されてはいましたが、それでも距離や主要な町の情報くらいはあっても良さそうなものです。

となると、この地図はポイティンガ―図のように旅行時などに自分の位置を把握するために使うのが主目的の地図ではないだろう、という推測が成り立ちます。

「日本扶桑国之図」についても見てみましょう。

周囲にびっしり書かれているのは、各国の人口や水田の数など、国別のデータです。ただ、街道の詳細情報がないのは行基図と同じです。

となると、この地図は、「持ち歩いて現在位置を把握する、面積などを正確に把握するなどの用途に即した地図ではない」と言えそうです(そういった目的の地図でいえば、荘園図や国絵図が存在している)。

そうなると、何か別の目的があるはずです。
ここで、それぞれの地域で地図を描いた目的が何だったか、原点に立ち返ってみます。
地図というのは古代から、

「自分たちの世界観を表現する」

ものでした。バビロニアの地図やTO図などは、それがよく表れていると言えるでしょう。

バビロニアの地図British Museum. Object Number: 92687., Public domain, via Wikimedia Commons
TO図Isidore of Seville, Public domain, via Wikimedia Commons

ということは、もしかしたら行基図などの「お饅頭を重ねたような形」もそれに該当するのではないかと考えてみます。

古代から近世にかけて、それほど大きな変化がなく受け継がれたということは、当時の人々の共通する価値観があるはずです。

そうなると、当時の人々の世界観はどんなものだったのかを、改めて見ていく必要が出てきます。

長くなってしまいましたので、次回の記事では、「古代~近世の人々の世界観」を追いながら、行基図などがあのような形で描かれた目的について考えていきます。

(おことわり)
行基図を始めとする古地図については、確証がないこともありその由来や目的などについては諸説紛々といった状況です。
こちらについても、あくまでも諸々の地図の比較やや文化背景に基づく「説の一つ」と考えていただければと思います。


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コメント


注目のコメント

  • 小川 真由
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    株式会社小川製作所 取締役

    Xでも日々地理の情報を共有してくださっている瀧波一誠さん(@mokosamurai777)によるNews Picksトピックスでの連載が始まりました!
    まずは日本の古地図からとの事で、大変興味深く、勉強になります。
    いちファンとして、今後の記事も楽しみです!!


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