2024/7/20

駅ホームは玄関口。ご当地駅メロが地域を活性化させる理由

NewsPicks+d 編集統括
駅の発車メロディーは、日本の日常生活において、最も聞かれている音楽の一つ。都内ではJRやメトロ、私鉄など、駅メロを聞かない駅はほぼありません。

地方ならではの個性が凝縮している、ご当地駅メロも増えています。ポピュラーな曲がたった十数秒の駅メロとしてアレンジされていたり、その土地を想起させるメロディーが作曲されていたりと、駅を訪れる人たちの思い出作りの一助となっています。

決して目立つ存在ではないものの、生活の一部となっている駅メロは、どのようにして生み出されているのでしょうか。

「駅メロ音楽家に学ぶ仕事のヒント」をテーマに、駅メロのカリスマとして知られる作曲家の塩塚博さんと、駅メロ制作会社・株式会社スイッチの小川洋一さんにお話を伺いました。
INDEX
  • 地域に根ざしたご当地駅メロも誕生
  • 依頼主は地方の商工会や企業から自治体へ
  • 依頼者たちの思いを汲んで生み出されるご当地駅メロ

地域に根ざしたご当地駅メロも誕生

駅メロの誕生と開始には諸説あり、一説によると1989年にJR新宿駅と渋谷駅に導入された音楽が駅メロの発祥と言われています。作曲家の塩塚さんは、「駅メロが長いこと支持されて、30年以上も親しまれるとは考えもしませんでした」と当時を振り返ります。
塩塚「僕が初めて駅メロを作曲したのは1993年のこと。その当時から、何回聴いても近隣の住民や利用者が嫌いにならないような、耳障りのいい爽やかな音楽を作ろうと考えていました。
たとえば、JR中野駅でお酒を飲んで夜の11時にホームに立ったとします。そのときに自分が作曲した駅メロが流れて、駅周辺にこだまするわけですよ。これは大変なことだなと思って、なるべく皆さんに愛されるような、つんつんしない音楽を作りました」
塩塚さんの心配りは功を奏し、「中野で駅メロのクレームは聞いたことがない」といいます。そればかりか、塩塚さんと小川さんは数々の駅メロを手掛けるようになり、やがて塩塚さんは「鉄のみゅーじしゃん」と呼ばれて親しまれるように……。
塩塚「1990年代にだんだん人気が出てきて、携帯電話の着メロの多くの駅メロが採用されたことにより、その人気は加速しました。
2000年代になると、インターネットが普及したことで駅メロがますます浸透し、それまで駅メロを採用していなかった多くの駅でも、駅メロが使われるようになりました」
(イラスト:Supirloko89 / GettyImages)
その地域にゆかりのあるメロディーを駅メロにする、ご当地駅メロが根付いたのも2000年代のこと。1997年にJR蒲田駅で『蒲田行進曲』、2003年にJR高田馬場駅で『鉄腕アトム』、2005年にJR恵比寿駅で『第三の男』などが採用され、全国に波及していきました。
駅メロの制作会社を営む小川さんは、「昔と比べて駅メロの価値が上がっている」と指摘します。
小川「放送設備も近年は格段によくなりました。鉄道会社の社員も駅メロの重要性に気づいていて、駅メロは乗客とコミュニケーションを取るための一つのツールになっています。
それほど駅メロは一般の乗客にも認知されて親しまれていますし、駅メロが好きな『音鉄』や『録り鉄』の存在も大きくなりました。テレビ番組のクイズで、駅メロを使いたいというオファーは非常に多いです」

依頼主は地方の商工会や企業から自治体へ

ご当地駅メロが全国に波及する中で、小川さんは「大きな変化があった」と語り、こう続けます。
小川「以前は最寄り駅がある商工会や企業から、PRのために駅メロを作ってほしいという依頼が多かった。でも今は、地域の活性化のため、駅を玄関口と位置づける地方自治体から制作の依頼を受けることが増えました。
駅メロが限られた団体の宣伝ツールから公共性を重んじたものに変化しています。
たとえば、地域にゆかりのある童謡、唱歌、民謡とか市歌。そういったものを駅メロでぜひ使いたいと。
その背景には、地方自治体が駅メロを制作するにあたって、ある程度予算を確保できるようになり、駅メロを通じて地域の文化や歴史を知ることでイメージアップにつながると判断したからだと思います」
当然ながら、依頼をする地方自治体には失敗できないという思いが強い。なかには、ご当地駅メロ製作委員会のようなものが発足し、「メンバーには地域住民の学者や音楽関係者が名を連ねることもある」と小川さんは言います。
小川「そういった方からは時に厳しい注文もあります。わざわざ東京の会社にお願いしなくてもいいんじゃないかって。そんな時は、塩塚さんの駅メロを持っていってプレゼンをする。『塩塚さんはこれまでこういう駅メロを作曲してきました』と。
そうすると、大抵は塩塚さんのことを気に入ってくれて、『塩塚さんでいきましょう』と納得してくれるんです」

依頼者たちの思いを汲んで生み出されるご当地駅メロ

2015に開業した北陸新幹線の長野から金沢間では、各駅で地域色豊かな発車メロディーが採用されています。
道中の上越妙高駅では、上越市出身で「日本の音楽教育の母」とも言われる小山作之助氏が手掛けた、『夏は来ぬ(なつはきぬ)』が選ばれました。この編曲を担当したのも塩塚さんです。
塩塚「『夏は来ぬ』だけ、特別に何かを考えて作曲するということはありません。ほかの曲と同じで、指定された楽曲の魅力をしっかりと伝えたうえで、気持ちよく乗車、もしくは下車していただけるような音楽を作ることを考えて作曲しています」
塩塚さんは謙遜しますが、上越市のホームページには、下記のコメントが掲載されています。
「『夏は来ぬ』は、子どもからお年寄りまで世代を越えて愛されるメロディーであり、ホームにこのメロディーが流れることで駅全体の雰囲気を明るくしてくれるとともに、メロディーを通じて旅行者にはこの地域の美しい自然や文化、そして人々の優しさを印象づけることができる曲であるとしてJRに採用を提案していました」
(※上越市の北陸新幹線「上越妙高駅」の発車メロディーのページより抜粋)
実際に上越妙高駅に赴き、現地で自然や文化に触れて作編曲のイメージを膨らませたのかと思いきや、塩塚さんからは予想外の答えが返ってきました。
塩塚「駅メロを制作するときに、現地に取材を行くことはありません。与えられた音楽を聴いたうえで、曲のどの部分を使ってほしいのか、どういう風な音楽にしてほしいのか、説明を受ければ編曲のイメージは固まるので、現地に取材に行く必要はありません。
希望をきいたうえで、元の音楽のメロディーを活かして何回聴いても飽きない、そして気持ちよく乗り降りができるような駅メロに、僕がアレンジしていくわけです。
(イラスト:sabelskaya / GettyImages)
最終的にタイプの異なる駅メロのデモを複数バージョン作って、その中から最もいいものを選んでもらっています。
最後に選ばれたバージョンを修正することはありますが、細かくディレクションされることはほぼないですね。
小川さんが、クライアントとの打ち合わせの中で曲の仕上がりイメージを固めてくれ、それを僕に伝えてくれるので、ほぼ間違いないものができるんです」
インタビュー後編では、塩塚さんの実績と信頼が依頼につながり誕生した最新駅メロ「SHRシリーズ」の誕生秘話や、駅メロ作りに対する塩塚さんならではの矜持について伺いました。