【グリー山岸広太郎】田中良和社長を10年支えた“もう一人の創業者”

2015/2/24
3人目に紹介するのは、グリー田中良和社長兼会長を創業時から10年間支えてきた山岸広太郎副会長だ。
2005年、わずか10畳のマンションの1室で創業したグリー。その舵取り役として常に脚光を浴びるのは創業者である田中良和会長兼社長だ。しかし、その陰で10年間、グリーを支え続けた“もう一人の創業者”とも呼べる存在がいる。山岸広太郎副社長だ。
二人の出会いは大学時代のインターンにさかのぼる。山岸がインターンとして働いていたIT企業にたまたま遊びに来たのが田中だった。当時はただの顔見知りに過ぎなかったが、その後、田中はソニーコミュニケーションネットワーク(現ソネット)へ、山岸は日経BPへ、異なる道に進む。
山岸は日経BP入社後、雑誌やウェブ媒体の編集者として活動してきた。だが「30、40歳になったときの自分が想像できるようになってしまった」のをつまらないと感じ同社を退職。その後、ITメディア「CNET Japan」の立ち上げに参加、2年間、編集長を務めるものの、葛藤が芽生え始める。「CNETというメディアをイチから立ち上げるのは楽しかった。でも外資の日本法人という位置づけだと、日本独自でリスクをとって、大きなチャレンジができない。いつか超燃える仕事がしてみたい」。ぼんやりとではあるが、起業を意識し始めていた。

うどん屋で打ち明けられた計画

そんな折、とある構想を田中から打ち明けられる。2004年1月、2人でプロレス観戦に行った帰り道、三軒茶屋のうどん屋でのことだった。
「俺さ、SNSの時代が来ると思うんだよ!」。熱っぽく語る田中。「ふーん、流行るんじゃないの? やってみたら?」、山岸は最初はつれない反応だった。
結局、2004年2月に田中一人で「GREE」アルファ版をリリースする。当時の田中は、昼間は楽天に勤務しながら、睡眠時間を削り、深夜も休日もすべてサービスの運営に費やしていた。こうした田中の“本気”の姿が山岸の心をうつ。「田中なら、自分自身と同じくらい信用してもいいと思えた」。田中の“不思議な磁力”に引きこまれた最初の一人が山岸だった。のちのグリー全盛期を彩る他の人材たちも同じだ。
創業間もないグリー。左が山岸、右が田中。

両極端の田中と山岸

その年の12月、趣味の領域を超えて、いよいよ事業化へ乗り出したグリー。「ただの友達」から「共同創業者」になった2人の間に衝突はなかったのだろうか。
山岸は2人の関係をこう評する。「田中はとにかくビジョンがあって、突破力があるタイプ。物事に対するひらめきや嗅覚が異常に鋭いんです。僕は反対に、事務処理能力が高いタイプ。物事を積み上げていくのが得意」。自らを「器用貧乏な事務方」とも称する山岸。「理想家」と「事務方」という両極端の起業家コンビはすぐにうまく回り始める。ふたを開けたら、初月から黒字だったのだ。
この快挙は、2人のチームワークによる効果も大きかったのだろうが、それ以上に、当時のSNSブームの勢いによるところが大きいだろう。会員数が順調に伸びていき、マイクロソフトやリクルートなどの超大手クライアントからの大型出稿も続いていた。
だが、ある日、頭打ちを迎える。グリーの前に“巨人”が立ちはだかったのだ。

立ちはだかる“巨人”、mixi

国内SNS市場で一躍ヒットメーカーに踊り出たのは、笠原健治社長率いる「mixi」である。当時、会員数は100万人にもなろうとしていた。かたやGREEは会員数20万人程度。社員もまだ数名しかいなかった。日々、水をあけられていくことに対し、「とにかく焦っていた」と山岸は振り返る。少しでも追い付くためにはどうすればいいのか。田中と山岸はひとつの答えを出す。
「やはりマンパワーがモノをいう。まずは人の差を埋めないとどうしようもない」
そこで田中が対外的な交渉や人材採用を、山岸が広告営業を担当し、プラットフォームの足固めを始める。そのかいあって、後のグリーを形作る屋台骨が相次いで加わる。天才エンジニアと言われる藤本真樹氏や、後にグリーの米国進出を担う荒木英士氏。いずれもグリーの取締役に名を連ねるメンバーだ。
だが、巻き返すには遅すぎた。「Winner takes all(勝者がすべてを取る)」とされるプラットフォームサービスの世界、いくらスター人材を集めたところで、mixiとの差はそう簡単には埋まらなかった。
「PCのSNSではほぼ負けが確定した」。腹を括った田中と山岸は思い切った舵取りを行う。世界初となるモバイル向けSNS、そしてドル箱事業となるソーシャルゲームへの転向だ。この決断によって、グリーは一気に花開く。
(撮影:竹井俊晴)