【番外編】シン・ゴジラは「ガラパゴス映画」なのか

2016/9/9
日本で大ヒットを記録中の映画「シン・ゴジラ」は、海外展開先の香港や台湾などの国々では、どのように受け入れられているのだろうか?NewsPicks東アジア特約コレスポンデントの野嶋剛がレポートする。

※この記事は映画「シン・ゴジラ」の内容に関する描写を、一部含んでいます。

空前の国際的展開の規模

映画「シン・ゴジラ」を最初に観たのは、横浜のランドマークタワーのそばにある映画館だった。
あまりの面白さに興奮してその日の夜は眠れなくなり、フェイスブックで友人と「シン・ゴジラ」の素晴らしさについてひとしきり語り合った。そこで友人が漏らしたこんな一言が、やけに心に引っかかった。
「でも、日本人以外が見たら、どう思うのかな」
そう。いったい、日本人がここまで熱狂したこの作品を、外国の人たちはどう思うのだろうか。
東宝宣伝部によると、「シン・ゴジラ」は世界103の国・地域で公開が予定されている。空前の国際的展開の規模であることは間違いない。
そのなかで皮切りとなったのがアジアだった。
現在のところ、台湾で8月12日に上映が始まったほか、シンガポールでは8月16日、フィリピンで8月24日、香港で8月25日、そして、タイでも9月8日に、それぞれ上映が決まっている。
いちばん最初に上映された台湾の友人にメールで聞いてみた。
「もうとっくに終わってるよ」という予想外の返事が戻ってきた。正確な統計は出ていないが、どうも10日間ほどで客が入らずに打ち切りになった、らしい。
ちょうど香港で立法会の選挙があり、香港に滞在した先週、取材の合間を縫って、「シン・ゴジラ」をやっている映画館を訪れた。
香港で若者が多い町として知られる旺角の一角にある「ブロードウェイ」という映画館に行った。上映は午前中の11時からだった。この日の上映はこの回だけだった。入場料は朝の割引で60香港ドル(約800円)。
チャイナマネーの流入で何でも高騰した香港では、映画もそれほど安くない。

「シン」=「真」なのか

中国語で「シン・ゴジラ」は「真・哥斯拉」と訳されている。日本では「シン・ゴジラ」の「シン」は、新なのか真なのか、あるいはほかの文字なのか、ある種、ナゾにされていたようだが、本当は「真」だったのか。
香港の映画館に飾られた「シン・ゴジラ」の中国語版のポスター。「史上最大のゴジラが登場。壊滅の危機に瀕する日本」と書かれていた。(野嶋撮影)
東宝宣伝部に尋ねると、「あくまでも漢字にするときに便宜的につけたもので、シン=真であるということではありません。英語でも『SHIN』となる予定で、シンの意味が明かされないのは変わっていません」とのことだった。
さて、映画館は100人ぐらいの小さなシアターで、観客は5人しかいなかった。香港人たちの反応を見てみようと最後列に座った。
中国語の字幕をチェックしてみた。何カ所かいい加減に訳しているところはあった。しかし、これだけセリフが多く、複雑な概念や用語を扱っているものをそれなりにしっかりと訳していたので合格点だと言える。
映画のなかで、唯一、香港人が笑ったところが、臨時首相があまりに忙しくて「ラーメン、のびちゃったよ」と、ため息をつくところだ。
日本人はあまり笑わなかったような気がするが、香港人のツボにはまったらしい。やはり麺文化の生みの親の中華文明だから、だろうか。このほかは「少しにおいます」など、日本で笑いを取っていたところに対するリアクションはゼロだった。
私は、自宅のそばの北品川で京急の列車がビューンと吹っ飛ぶところで爆笑してしまったので、逆に振り向かれて驚かれてしまったほどだった。
香港は、映画の興行成績がリアルタイムで公表されている素晴らしい映画情報の透明化がされているところなのだが、私が香港にいる間にゴジラの人気がみるみる落ちてしまっていたことが分かった。
これは公開直後は6000人を超えていたが、8月28日から9月2日にかけての観客動員数では、公開7日後には1日1000人を割っている。(3日の部分はデータなし)
対照的に超人気を集めていたのが韓国のゾンビ列車映画。まだ日本では公開されていないが、もともとゾンビものでは「キョンシー」以来の伝統がある香港人だけに、その琴線に触れたのかもしれない。
トップを独走して韓国映画としては香港で過去最高の興行記録を打ち立てている最中だっただけに、「シン・ゴジラ」の低調ぶりがさらに際立っている印象を与えるものとなった。

日本社会が恐れているものの象徴

私なりに何となく「シン・ゴジラ」が香港で受けない理由に思い当たるところはあったが、とりあえず、ラジオでも番組を持っており、著名な評論家で、香港中文大学で教えている健吾さん(36)に映画の感想を聞いた。
日本留学経験もあり、日本文化の評論でも活躍している健吾さんはこう話した。
子供の頃、先生からゴジラについて、あれは日本社会が恐れているものの象徴だ、というような話をされたことを覚えています。
つまり、核兵器とか、環境破壊を、日本人は恐れているんだということだったと思います。ですから、私はそんな前提でこの映画を見ました。
確かに、この映画も、日常が突然、訳の分からない形で壊されてしまうのを描いているようで、日本人はなにか、突然の不幸に見舞われることへの恐怖心があるかもしれませんね。
健吾さんは、さらにこう述べた。
私が面白かったのは、日本社会の集団主義が、この映画のなかでしっかりと表現されていることです。仲間が一致して問題解決に向かって戦っていく姿は、日本では最も歓迎されるストーリーです。
一人のヒーローがすべてを解決することを好むことが多い香港映画にはあまり見られません。政治的なモラルについて、主人公たちが語っているところがありますが、あれは香港人は理解できません。なぜなら、香港では国と民衆のために命をかけて責任を取ろうという政治家を見たことがないからです。
一緒に見に行った私の友人は最後の「この国はまだまだやれる」というセリフを聞きながら、何いってんだみたいな感じで、薄笑いを浮かべていました。
もちろん、香港人にはゴジラに共同記憶がないので、そもそもゴジラとは何かということを多くの若者は知りません。
ですから、映画館に足を運ぶ動機が少なかったということもあります。また、「シン・ゴジラ」に多くのスターが出ていることも話題になっていましたが、香港人が知っているような俳優は多くないので、そこもポイントになりません。
そうした要素が重なって、チケットボックスは伸びていないのだと思います。
なるほど。香港で人気が出なかった理由の一端が分かったような気がした。
香港の新聞をめくっていると、映画評の大半が韓国のゾンビ映画だったのだが、1編だけ、「シン・ゴジラ」を取り上げたものを見つけた。
そこでは、日本の政治が米国の介入を無批判に受け入れていることに疑問を呈して、「米国の属国であることに疑問を持たない日本人の弱さを感じた」と書かれていた。確かにその点は私も気になっていたところだった。
米国主導の国際社会が日本に核を落とそうとする。それをやむを得ないこととして日本政治の中枢はいったんは受け入れてしまう。しかし、東京に核を落とすことには、何があっても抵抗するのが本当のナショナリズムなのではないか。
日本では、しばしばナショナリズムが「米国」という例外を無条件でスルーしてしまうところがある。それは日本社会では合理的な現実かもしれないが、日本以外に暮らす人々にとっては、そんな戦後日本の論理は理解しがたいのだろう。

日本人が作った日本人のための映画か

台湾の映画情報の掲示板の書き込みもさらってみた。多かったのが「ゴジラの登場時間が少ない」だった。「ゴジラを見に行ったのに、日本人の大人の会議ばかり見せられた」というコメントもあった。
今回の「シン・ゴジラ」が受けた理由の一つが、ゴジラそのものの破壊ぶりよりも、異常事態に直面した日本社会の大人たちが、ダメさ加減をさらしながらも、団結し、立ち向かっていくところだったが、そんなカタルシスは日本社会の膠着した普段の雰囲気を知らないアジアの人には分からないかもしれない。
日本映画で抜群のヒットとなった作品といえば、宮崎駿監督のアニメ「千と千尋の神隠し」を思い起こす。この作品はアジアでも記録的なヒットとなった。アカデミー賞でも評価された。
つまり、「千と千尋の神隠し」には、異なる規範と環境のなかで生きている国際社会の人々にも理解され得る普遍性があったのだ。
しかし、「シン・ゴジラ」はいまの日本人が作り得る最高級のエンターテインメントなのかもしれないが、あくまで日本人が作った日本人のための映画であり、世界に通じる普遍性はそこまで濃くないのかもしれない。
つまり、日本社会にのみ通用するガラケーならぬ「ガラパゴス映画」、なのだろうか。
北米公開は10月に決まっている。そこで「シン・ゴジラ」の提示するテーマが世界の人々にも届くものであるかの最終的な決着がつく。
日本人だけに愛される映画であることは決して作品の価値を損なうものではない。
しかし、その作品に熱狂するにあたって、自分たちの反応が、他者にどう見えて、どこまで共感され得るのかを知ることは、決して無駄ではないと思う。